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日本が連合国に降伏したのは70年前の9月2日で、8月15日は「終戦勅語」をラジオが放送した日
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201508140001/から一部
日本では8月15日を「終戦記念日」、あるいは「終戦の日」と呼ぶ。70年前のこの日に「玉音放送」、あるいは「終戦勅語」と呼ばれている昭和天皇の朗読がラジオで流された日だ。それがなぜ「終戦記念日」とか「終戦の日」になるのだろうか?
堀田善衛氏の言葉を借りるならば、朗読の内容は「負けたとも降服したとも言わぬ」不審なもので、日本に協力させられた国々に対しては、「遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この嫌みな二重否定、それきり」で、「その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の軀にこたえた」(堀田善衛著『上海にて』)代物だった。負けたわけでも降伏したわけでもないので「終戦」だと言いたいのかもしれない。
30年以上前、兜町の古老に聞いた話だと、1945年の春先には「平和産業株」を買いあさる人がいたようで、支配層の内部では降伏が近いと認識されていたのだろう。沖縄本島へアメリカ艦隊が攻撃を始めたのは3月23日で、26日には慶良間諸島へ上陸して集団自殺が起こっている。沖縄の第32軍を指揮していた牛島満司令官が長勇少将と自殺したのが6月23日、アメリカ軍は7月2日に沖縄戦の終了を宣言した。
沖縄本島への攻撃が始まる前、3月9日から10日にかけて東京の下町は大規模な空襲で火の海になり、10万人、あるいはそれ以上とも言われる住民が焼き殺された。そのほかの都市も空爆で多くの人が焼き殺され、8月6日にはウラン235を使った原爆が広島へ落とされ、9日にはプルトニウム239を利用した原爆が長崎へ落とされた。8月8日にはソ連がヤルタでの合意に基づいてい日本と戦争を始めている。
都市部への空襲が激しくなると、原爆の開発を急いでいた仁科芳雄を中心とするグループは朝鮮の興南へ避難、そこで研究を続けたようだが、8月12日には原爆の実験を行ったとする情報もある。アメリカの軍事専門家の中にはアメリカの原爆よりも性能は上だったとし、その施設などを押さえたソ連はその後の核兵器開発に生かしたとする人もいる。
長崎に原爆が落とされた直後に開かれた「御前会議」で日本政府はポツダム宣言を受諾する、つまりアメリカ、イギリス、中国、ソ連に降服することを決め、8月10日夜半には同盟通信の海外向け放送でこの決定を明らかにし、14日には最終的な受諾通告をした。そして15日に「終戦勅語」、16日に日本軍は停戦命令を出し、9月2日に政府全権の重光葵と軍全権の梅津美治郎が降伏文書に調印した。戦争が終わったのはこの日だ。
日本の現行憲法が公布されたのは降伏から1年2カ月後の1946年11月3日、その翌年の5月3日に施行されている