今日は落穂拾いですが、その前に一つ。
突然ですが、マルクスが「フォイエルバッハに関するテーゼ」の中で
「人間の本質は、その現実性においては、社会的諸関係の総体である。」
といっています。
むずかしいですねえ。
これは「人間、誰でもみんな人さまのお世話になって生きている」ということ、つまり「人間は社会を作ってその相互の結びつきの中で生きている」ということです。
「ポツンと一軒家」に住んでいる人でも、まったく社会と無関係・無縁という生活を過ごせている人はいません。そのつもりで生きていたとしても、ひとたび災害があって孤立状態にでもなれば、事件として扱われます。
なにかの理由で「もう人と付き合うのはイヤだ」という人もいますが、そういう人でもその時代の社会で生み出されたものを一切なにも使わずに生活している人はいません。
むしろ、長い間に一軒だけになったとか、そこで生活するのが便利とか、楽しいとか、経済活動に都合がよいとか、必ず理由があります。
そして、いずれの場合も、収入や必需品の調達などで社会と必ずつながりをもっていて、あるいはいろいろな技術などを習得していて、自分でそれをうまく使いこなせるような人というのがふつうです。そうでなければ生きられません。
あのロビンソン・クルーソーをみればよくわかります。かれはイギリスでの生活を、限られた範囲でですが、再現しています。
ところが、阪神淡路の震災以降こんどの能登地方の震災まで、洪水・氾濫、台風・竜巻など、またコロナの蔓延、鳥・豚などの伝染病など、順番待ちに近い状態で全国的に発生しています。
その中では、直接に人的物的被害を受けた人が多数いる中に、個々には直接の被災を免れたという人ももちろんいますが、個々の運不運というようなことではなく、大事なことは、大規模災害が勃発すると、まずその地域社会の人々の「日常生活が寸断」されてしまうということです。そして、それは日本全国に様々な形で影響を及ぼすということです。
冒頭の、マルクスのいう「人間の本質」つまり「人間は社会を作って、その社会の相互関係の中で生きているということ」を、われわれは災害によって知らされているわけです。
しかし、それは、1ヶ月たっても、半年たっても、10年たっても、結局十分な対応を受けられないために、思うように元に戻らせることができないうちに、やがて次の災害や大事件が次々に発生しますから、次の対応を迫られ、やがて忘れられて、自然に「自助」にまかされていってしまう・・・。
「人間の本質」が、現実の利害関係が優先されるために、見失われてしまっています。
まあ、与党が「パーティー券」ですからね・・・。
ああ、今日は「落穂・拾い」でした。順不同です。今日はこのブログ第88回ですから、ゲンをかついで8枚です。
(1)アメンボウ:どこにいるかわかりますか?
(2)多摩川で:カワウがウナギを飲み込み合っていました
(3)雪の日:材料は「コ・ヒ・の・・」です。
(4)雪の甲府盆地:トンネルをぬけると・・・・
(5)セミの幼虫:動画もあり。
(6)雁ヶ腹摺山:ほかの2つは「牛奥ノ・・・」、「笹子・・・」です
(7)ヒガンバナ:むかしはものをおもはざりけり・・・。
(8)仙岩峠:明治道がしっかり描かれています(これは借り物です)。
では。
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