(1)今日は、昨日の「金比羅尾根縦走記 4」に載せた「改修記念」碑と「御大典記念」碑について調べるため、午後に昭島市民図書館の郷土資料コーナーを閲覧に行ってきましたました。
閲覧したのは『日の出町史』の「文化財編」と「通史編下巻」(平成18〔2006〕年)の2冊です。しかし、残念ながら、公式記録であるこの2点の『町史』からは、どちらの碑の存在についても、どちらの開通事業についても、手掛かりが得られませんでした。専門外のことを、にわかに思い立ってちょっと調べてみたまでのことですから、まあ気長に探ろうと思います。
(2)とはいえ、動けば何もないということはありません。一つ、手掛かりが出て来ました。
それは、「改修記念」碑に「報徳部落」とありましたから、「報徳 日の出町」でネットで検索したところ、日の出町に「報徳会館」があることがわかりました。場所は梅ケ谷〔うめがた〕トンネルのすぐ近くです。
じつは、もう20年以上前になりますが、「報徳会館小田原」や掛川の「大日本報徳社」に資料閲覧でお世話になったことがあります。ここで、また一つ「点と点の繋がり」がみえてきたようです。
(3)それから、副産物として、『日の出町史』(200~203㌻)に多摩地方の「御料林の払い下げ」問題について言及した記述があることがわかりました。
これは、近世以降に社寺が所有していた林地は明治4年に国〔官〕に上地されて官有地となりますが、明治23〔1890〕年頃の御料地形成の際にそこからも取り込みました。しかし、面積が小規模で御料局の林業経営に不向きなこと、大部分が保安林に属したこと、社寺の風致林として不可欠なことなどのために、明治33〔1900〕年に「社寺上地御料林野特売規程」を制定して払い下げ処分を決めました。しかし、翌34年には、寺社の風致、事業、縁故、建築、警衛などで必要とするところを無償払い下げを決めました。下の表はそれをまとめたものです。
この結果、神社の財産基盤が充実していきますが、しかし、もともと上地された林地がすべて払い下げられたわけではなく、例えば、大久野村の白山神社〔表の2行目〕の場合には、もともとの所有地3反9畝のうち下げ戻されたのは3畝2歩、約10分の1にすぎなかったことが述べられています。
(4)御料地・御料林の問題もまだまだ未解明な部分が多く、私も手が回っていません。特に、こういう地域と関わる問題では地方史家・郷土史家の参加が不可欠です。
情報公開法が制定されて、重要資料が見られる時代になりました。昔なら大先生でも見られなかった重要資料を、今は駆け出しの学生でも見られます。だからこそ、積み上げる研究を心がけないといけません。資料を持って来て「どうだ」と並べて見せるだけではいけません。大向こう受けを狙った「皇室財産論」とか「皇室財政論」みたいなことではない研究を心がけることが重要です。
【コレクション 140 文学評論】
私に文学を語る資格があるとは思えませんから、載せるだけです。
とはいえ、若いころ読んだタカクラ・テルさんの『大原幽学』や谷口善太郎さんの(え~となんといったか、もう忘れてしまいましたが)作品は印象深く読みました。
パンフレットの大きさは、B5判で4㌻です。B4判の用紙を二つ折りしてできています。
全体は、
1㌻ 下に掲載
2㌻ 下に掲載
3㌻ 執筆者名紹介 創刊号(昭和9年3月)目次 内容見本
4㌻ 刊行案内 体裁:菊判 各号平均208㌻ 全31冊(合本全9冊) 揃定価:118,000円
1984年1月刊 ナウカ㏍
刊行挨拶
1㌻
2㌻
以上です。
今日はここまでです。
君知るや ながら酒のうまさを
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