(1)きのう、庭の少し藪になっているところに入って写真を撮っていたところ、左の足首の上をなにかに刺されてしまいました。刺されたのは1ヶ所ですが、脛の中ほどまで、痛みと熱を伴って赤く腫れあがっています。
きょうも一日、薬を付けて冷やしましたが、一向に効果が見られません。歩いた時の痛みは、むしろ増してきているようにさえ思われます。
ということで、ほとんど動かずでしたから、作業ははかどりました。
(2)きのうの金峰山遭難のこと、感想を二つ書いておきます。
一つは、あの通過した道のことです。
道は、シャクナゲが左右からかぶさってきて難儀しましたが、踏み跡は割合はっきりしていて、ほかに太い古木、大きな岩などの見どころもありました。
また、尾根では、市境として踏査したことを窺わせる「頭部を赤く塗った杭」も何ヶ所か見ました。そして、杭の近くの木には探求標が付けられているとか、枝には赤いテープが付けられているのも見ました。
感想としては、整備するならばよい登山道になると思います。登山道に整備するのはたいへんですが、2~3人の希望者が集まれば、もう一度行ってみたいとさえ思っています。
(3)もう一つは遭難原因です。
金峰山古道を歩いて林道に出たとき、その林道から分岐して入っていく道がありました。実はそれが辿るべき登山道だったのですが、ところが、その道は山を下って行くように見えました。そのため、よく確かめもしないで、そっちではないと決め付けてしまったわけです。
間違いをするときとか、遭難するときとかはそういうものです。わかっている人からすれば、あるいは、リクツをよく考えれば、なんでこんなことを間違えるのだろうかと思うようなことが原因で事件が起こります。
この時のことでいえば、「正しい道を除けて」、「正しい道と思った道を進んだ」わけです。これでは無事に済んだことが不思議となります。
その時は、「冷静に行動して上にたどり着いた」と思いましたが、金峰山小屋の主人が言ったように、「運がよかった」のかもしれません。
(4)ところで、この「正解を除けておいて、正解を求める」というトンチンカンなことは、現実の政治や経済ではよくあります。
たとえば、財政学では、税は応能負担が原則です。応能負担とは、「能力に応じて負担する」ということです。負担能力のある人からはたくさん徴収し、負担能力のない人からは徴収しない、ということです。そして、これが、税の「実質的に平等な負担」の仕方ということです。
ところが、今日ではどこの先進国も、大企業や資産家が社会の中心を占めています。この人たちが占める割合は、日本でいえば、だいたい3%程度です。残りの97%は労働者、中小企業経営者、農林漁業者、一口に勤労者です。人数では圧倒的に勤労者の方が多いですが、経済力では3%の大企業や資産家の方が大きく強いです。しかも、この3%人たちは、カネの力で人を雇って何かをやらせることもできますし、政治家にパーティー券や政治献金をするなどして接近して政治を動かすこともします。
そうして、スポンサーが法人税や所得税が高いと投資や経済活動に使われる資金が減って、経済規模が縮小して景気が悪くなるなどと宣伝すると、パーティー券を買ってもらった議員や今までの与党は、選挙のときは票が欲しいから97%の方にも頭を下げますが、無事当選すると、そっちは無視して、禊が済んだとばかりに、スポンサーの方ばかりを見るようになります。
そうすると、「税は平等に負担するのが公平だ」とか、「受益者負担が原則だ」というような無慈悲なことを平気で言い出します。
(5)多くの国民や高齢者は、困っているから行政に頼るのに、そういう実態をよく見ずに、若者と高齢者を対立させるようなことを言いながら、負担能力のある人もない人も一緒くたにして、みんなで少しずつ平等に負担をして支え合うのが平等であるかの宣伝をして、消費税を導入し、高齢者は高齢者同士で支えあうことも必要とかいって後期高齢者制度を導入し、負担を1割2割3割とドンドン挙げることを画策します。
新聞に国民民主党の「安楽死」政策が出ていましたが、どれだけひどいことを言っているかわかってもいないようです。
本来の「応能原則」という「正解」を投げ捨てておいて、負担能力のない人まで含めて一律に負担をさせること(=形式的平等)をやってきたことが、どれだけ国民を苦しめてきたか、どれだけトンチンカンなことをやってきたか、今こそ思い知らせてやる時です。
〽思い出しておくれ~ 失われた30年を~
きょうもコレクションを入れるところがなくなりました。
〽あし~たがある~さ あすがある~
では、この辺で。
きょうは、アケビが口を開けていたので、2個取って食べてみました。
おいしかったです。
写りがよくありません
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます