神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.280 西南戦争警視隊戦記

2024-09-02 00:02:28 | 勝記日記
(1)きょう9月1日は関東大震災の起こった日でした。
 この日、神足勝記も鎌倉で被災して、二男の勝起氏と孫の勝浩氏ともども、間一髪、難を逃れました。そして、その後はこの日のことを忘れないために、毎年あえて握り飯を食べるなど、注意を喚起する日としています。今日いうところの防災の日としていたといってよいでしょう。そのことを神足は日記に書いています。この記述はのちの研究の参考になるものと考えて、『神足勝記日記』(J-FIC)の538㌻以下に全文を残しました。みなさんにも、この際にぜひまたお読みいただき、神足と思いを共有していただけるとよいと思います。

(2)関東大震災といえば、朝鮮人の虐殺のことがあります。
 上にあげた『神足日記』にも「暴鮮人襲来の説あり。復ひ山上に避けんとせしも、風説なるを知り中止す。」と出てきます。神足のような冷静な人でも、噂を聞いて「山上に〔難を〕避けんとせしも」というのですから、一般の不安は相当広がっていたことでしょう。その結果が虐殺事件です。これが事実です。

(3)ところが、このブログのNo.65で取り上げましたが、群馬県の山本一太知事は「公益に反する状況が続いている。一日も早く正さなければいけない」と言って、公園から「朝鮮人追悼碑」を撤去してしまいました。
 しかし、私の出身の群馬県藤岡市でも朝鮮人の虐殺事件がありました。
 これは、市内4丁目の交差点を東に100mほど入ったところに成道寺があり、向かいの墓地に入るとすぐ右手に大きな追悼碑があります。
 関東大震災の当時、成道寺の西脇に警察署があり、暴動を疑われた朝鮮人が、難を避けるために警察署に逃れたものを、市民が引き出して殺してしまったことを反省する追悼碑です。
 こういう事実があるにもかかわらず、一部の出来事があったことをもって「公益に反する状況」との口実にして碑を撤去したのはむしろ「公益に反する非友好的な行為」です。

(4)この点は、東京都知事小池百合子氏も同じです。
 今年も、史実を無視して、都としての追悼文を送りませんでした。ほんとうにツミ深い人を知事にしたものです。「追悼文を送る・送らない」は選挙の時に争点になっていませんでした。むしろ知事は、公務優先をいっていろいろな議論を逃げていましたから、追悼文の件でも都民から支持されたというわけではありません。
 小池さんは、過去に何か後ろめたいことがあるのでしょうね。ですから、過去をちっとも率直に語りません。
  小話:
 「歯石を取るには歯医者さんだね・・・。」
 「では、頭の石はどこへ?」
 「もう、ボチ~ッボチッ、考えて!」
 自分で意識しないと取れない、致命的な重石です。以て他山の石とすべし。

    
       雨の訪問者

【コレクション 74】
 きょうは、『西南戦争警視隊戦記』です。
 これは西南戦争に関しては知られた本ですが、長らく入手不能の稀覯本でした。私は、もちろん西南戦争を研究する者ではありませんが、この戦争で熊本市街が焼失したことによって、神足勝記が母・姉の安否・行方を気遣う場面が『日記』にでてきますので、より具体的に知るために注目しました。
 なお、本ブログのNo.3に相当する「勝記の母とその日記」、No.4に相当する「神足勘十郎と勝記の写真」も併せてごらんください。

     
 
 このパンフの写真や見出しの一文に違和感を覚えるという方もあるかもしれません。私もそうですが、気にしないことにしましょう。中身のすごさはこの通りです。
 このパンフの大きさはB5判、8㌻です。B5判4枚分の横長の用紙を二つ折りし、さらにもう一度二つ折りするとできます。
 1㌻ 上掲
 2~4㌻ 推薦文 中村彰彦 名著『西南戦争警視隊戦記』の復刻を喜ぶ
      刊行案内 B5判 650㌻ 定価1万8千円(予価1万6千円)
           平成28〔2016〕年11月 マツノ書店
 5㌻ 内容見本
 6~7㌻ 総目次 「本書の特徴」
 8㌻ 内容見本
 以上です。
 2つほど書いておきます。
 一つは、上に書いたブログの箇所にもありますが、神足は、西南戦争で熊本城で籠城戦死した神足勘十郎(血のつながりはありませんが、当時の家制度で叔父にあたる)を父とも思い、慕っていて、その死を克明に調べています。すでにその整理もできましたから、いずれ発表したいと考えています。
 もう一つは、No.86・87で取り上げた高橋寛司のことです。
 宮内公文書館で『進退録』を調べると、確かに高橋寛司も西南戦争の時期に一時期だけ宮内省に雇われていました。しかも、県令の推薦という形が取られています。それでは、なぜ高橋らがそうして宮内省に雇われたのかというと、これはまだ推測ですが、西南戦争のために、首都を警護していたで警視らが動員されて手薄になった宮内省周辺の警護のためだったのではないか、と思われます。
 きょうはここで。


  きょうの つかの間の西の空 

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