神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.150 傷ついた犬の目 2

2024-04-24 21:54:07 | 新聞記事
(1)昨日のブログを書き終えてから、『朝日新聞』19日付に「戦争の犠牲 目背けずに」と題した、元内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)の柳沢協二さんへの「インタビュー」記事があったのを思い出しました。
 昨日の河村たかし名古屋市長の発言は度し難いと思いましたが、柳沢氏は思慮深い目をされていて、発言内容には、聴くべきものがあると思いました。以下に取り上げてみます。

   
     庭で

(2)記事は、大きく2つから構成されています。
 一つは「イラク派遣の反省」です。もう一つは「非戦のための外交」です。
 私は、柳沢氏が「言葉の力で解決する道を模索している」と読みました。

(3)まず一つ目は、記者が、「イラクに自衛隊の部隊を派遣する政策を、2004~09年の間、内閣官房副長官補として支えましたね」とミズを向けます。
 すると、柳沢氏は、部隊派遣は着任前に決定されていたが、「派遣延長を命じる閣議決定文書の起案者は私でした」と答え、さらに、自衛隊が派遣されるのは『非戦闘地域』とされていたが、「実際には宿営地は攻撃にさらされていました」と実態を明かします。
 そして、派遣を命じたのは首相だが、もし隊員に犠牲者が出たら、進言者としての自分の責任も免れないと感じたと心境を吐露したのに対して、記者が「一人の死者も出さない形で、・・・任務を09年に終えたのですよね」と継ぐと、「『誰も死ななかったからよかったね』で終わっていいのか」、「派遣された延べ約1万人の自衛隊のうち29人が在職中に自殺した」、「こんな形の犠牲もありうるということを、・・・当時・・・考えていませんでした」と苦悩を答えています。
 最後に、記者が「イラク戦争の大義」を問うと、柳沢氏は、米国が掲げた大義を支持したが、イラクには大量破壊兵器は存在しなかった、「必要のない戦争、無駄な戦争だった」、「政策決定者も間違う」ということを「政策決定の側にいる一人としてどう考えればいいのか」とここでも苦悩を言いました。
 そして、「戦争とは大切な人を失う危険を誰かに追わせることだから」、「意思決定者は失われる命に対して臆病であるべきだ」と警告します。
 柳沢氏は、イラク派遣の自衛隊のことを念頭に語ったわけですが、いまのガザを念頭におくならば、「戦争とは無差別殺人である」となるでしょう。

   
    静かに

(4)後半は、まず記者が、「日本の政権は、異次元の防衛費増大を目指したり、敵基地攻撃能力を持とうとしています」とミズを向けられたのに対して、「エネルギーも食料も自給できず、・・・防衛費を増やして敵基地に届くミサイルを持つことで強くなれるかのような錯覚に陥ることは危険です」と答えます。
 さらに、麻生太郎副総裁が台湾での講演で日米台は「戦う覚悟」が求められていると述べたことを、柳沢氏が批判した真意を問われて、「問題は、誰にどのような犠牲についての覚悟を求めているのかを政治家が証明していないことです」と重ねて批判したので、記者が、さらに政治家が戦争の犠牲の問題について具体的に語らない理由を問いました。すると、「思考停止の結果だ、・・・『抑止力を整備すれば戦争にならない』と語るところまでで思考が止まっていて、裏側に『だから戦争になった場合の犠牲を考える必要はない』という言葉が実は張り付いている状態」と解説しています。
 そうです。昨日の河村たかし名古屋市長は「残念ながら戦争が起こる」といってました。抑止力をいくら強めても、それでは限界がある、それだけではダメだと、河村さんでさえ言っているわけです。

     
    イモコロ:じきにチョウになります

(5)最後に柳沢さんが挙げたのが「英霊思想」です。
 昨日、名古屋市長の「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」といったというのをとりあげましたが、まさにあれは「英霊思想」です。
 プーチン露大統領は兵士の母に「彼の人生は無駄ではなかった」と語りましたが、あれもそうです。
 柳沢さんは言います。
「国家のために犠牲になることは有意義だとする、英霊思想・・・そこには、他者の人生を自分の道具と考える政治指導者のおごりがあります。」
 まさに、死んで花実が咲くものか、ということでしょう。

    
    これから です

(6)日本には神社へ行くとあちこちに碑があります。神様に祀り上げてめでたしとする現われです。
 いまキック・バック問題の渦中の森元首相は、日本は「神の国」といいました。これは、天皇問題でもあるのです。
 以上は、インタビュー記事のようやくです。できたら、原文も目を通してみてください。

   
    ・・・
   


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No.149 傷ついた犬の目は 

2024-04-23 18:56:00 | 新聞記事
   
    わくわくする新緑の朴

(1)若いころ、「傷ついた犬の目は人間の目をしている」ということを読みました。これは、記憶違いでなければ、哲学者の真下信一さんの本だったかもしれませんが、何かの原因でケガをして、その痛みに耐えている犬の目が、どうして自分はこんなになったのかと考える人間の目のように見えたということだったかと思います。
 世の中、失言が多い人、記者会見のたびに訂正をする人、無神経とか、傍若無人というのは、だいたいが、よく知らないでものをいう人、よく考えないで経験だけでものをいう人、要するに「痛みの分からない人」です。
 犬でさえケガでもすれば、人間の目つきになるのに、「人間なのに人間の目つきをしていない」のをみて、許しておいてよいでしょうか。

   
   「五弁の椿」の岩下志麻さん、またみたいなあ!

(2)23日(火)の『朝日新聞』を見ていたら、名古屋市長の河村たかし氏が「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」と言ったと出ていました。
 これには前段があって、「なごや平和の日」の意義を問われたのに対して、「(戦争で)死んでいった人たちに思いを寄せないといけない」と述べたうえで、こういったというのです。
 河村氏がよく訂正発言する人であることは知られていますが、なんと訂正しようと、要するに、「知らないのに高所からものを言える立場」に立たせているからそうなるのです。

(3)世の中、偉そうな発言をする人がしばしばいますが、そういう人や出たがり屋は政治家にもっとも不向きです。いま、そう人が大半です。
 いま、自衛隊が靖国神社に集団参拝するとか、文書に「大東亜戦争」という文言を使っているとかが批判されていますが、先のあの戦争は、中国・朝鮮・東南アジア諸国へと領土を拡張しようとした「侵略戦争」です。
 全国で「英霊」として祀られている多くの戦死者は、いまウクライナで戦闘に加わっている人々と異なり、自国に攻め込んだ敵〔傭兵までいる敵〕を追い出す防衛のために戦ったのではなく、「祖国のために」という名目で駆り立てられた「被害者」・「犠牲者」であると同時に、周辺諸国・他国へ攻め入った「加害者」・「侵略者」、あるいは「その手先」とさせられた人たちです。
 そういう「(戦争で)死んでいった人たちに思いを寄せて」いるなら、「道徳的行為」とは到底いうことができないことです。

   
    釈迦堂遺跡博物館

(4)河村氏は、「国に命をささげるのは、大変勇気のあること」とも言ったそうです。しかし、これも河村氏が「思考停止状態」の「思い込み」を言ったにすぎません。
 あの「戦没者たち」は「英霊」として祀り上げられましたが、彼らは「勇気」があったから戦場へ行ったのではありません。彼らは、取っ組み合いのケンカさえしたこともない、善良で、普通にどこにでもいる一般人でした。それを、お国のためといって、天皇陛下の股肱とされて、38式の歩兵銃などの武器を持たされ、追い立てられて仕方なく行ったのです。
 河村氏の発言は、黒を白と言いくるめる本末転倒の発言で、「死者への冒涜」です。

(5)前にも書きましたが、いま私は『進退録』という宮内省帝室林野局の人事異動の文書を読んでいます。今日読んだところだけで「戦死者」・「戦病死者」が6人出てきました。
 たとえば、その一人のT・Sさんは群馬県群馬郡の出身の人ですが、つぎの経過で亡くなりました。
  昭和15年3月、東京高等農林学校林学科卒業
       4月、帝室林野局入局
    16年3月、休職=徴兵
    17年、  休職=徴兵
    18年、  休職=徴兵
    19年、  休職=徴兵
    19年12月31日、パラオで戦死

 このT・Sさんが、好き好んでパラオまで鉄砲を担いで行ったと思いますか。「道徳的行為」だからと「勇気」をもって行ったと思いますか。「英霊」になりたかったと思いますか。全部NO!です。そうさせられた、そこへ追い込まれたのです。「お国のため」と言ってです。
 だから、そういう言葉を使う人が現われたら、いち早く批判しきらないといけないということです。

   
    影を慕いて

(6)河村さんは、「祖国」といっています。
 昔は「お国」、今は「祖国」・・・。どちらでも「日本」はポツダム宣言を受諾して、ニ度と軍隊を持たない、軍需産業を廃止すると約束して国際社会に復帰しました。平和憲法を持って戦争をやらない手立てを工夫して出発しました。
 でも、それをどんどん崩したのが与党の歴史であり、それを支えてきたのが「下駄の鼻緒の平和の党」です。そして、それを急転回させたのが、2004年~09年の小泉政権の自衛隊のイラク派遣、2015年の安倍政権の安保法、そして武器輸出まで認める現在の岸田政権です。
 河村氏が「戦争を避けるべき」と考えるなら、この与党と「平和の党」の政策を改めさせるのでなければならないはずですが、河村氏は、それを言うどころか、他人ごとのように次のように言ったそうです。 
 「〔戦没者に〕『サンキューベリーマッチ』といわなきゃ、みんなの福祉も平和も保てないんじゃないですか」
 「(命は)捨てない方がよい。・・・『捨てよ』とあおっているわけではないが、残念ながら戦争は起こる」と
 これは「あおっているわけではないが」と言いながら、「死地に追い込まれた人」をダシにして、「戦争の危機」だけを言ったのだから、非常に悪質な「あおり」です。
 怒れ、名古屋市民!
 怒れ、「祖国」の同胞!

 見識のない政治家が多くて、「祖国」茫々。前途あれ!

    
     再録かも?

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No.148 昨晩のuu

2024-04-23 03:16:48 | 追憶


(1)これまでにもう何回も書きましたが、このブログは『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIG)の宣伝のために始めたものです。関係者に伺ったところ、高価で地味な本なのに、順調に知られてきているとの評価でした。
 しかし、天皇とか、皇室財産とか、御料地とか、そのほか、林業関係・測量関係・文学関係・熊本関係・関係自治体の郷土史・関係大学と研究機関など・・・全国にたくさんありますから、そのことを基準に考えると、まだまだ届いていないと思います。これには、図書館の財政事情と関係者・司書の目配りが関わっていると思われます。
 高価とはいえ、刊行部数には限りがあります。必要とする所へ確実に届けたい。今どきの投機を煽るつもりはありませんが、あとでは入手困難な稀覯本になります。

(2)ところで、昨晩(21日23時台と22日1時台に)、爆発的に視聴者がありました。どのくらいかというと、25~30人が視聴する時間が続き、それぞれ延べ100人超に達しました。通常は、2日間で100~130人くらいのものです。少ない日は40人台です。それが、短時間にこんなに大きな数字を記録したことはありませんのでおどろきました。
 おそらくなにかの集まりがあって、どなたかが言い出したことがきっかけで話題となったものでしょう。『神足日記』についてでも、このブログについてでも、私の方で知っておくべきことやご意見がありましたら、ぜひコメント欄にでもお寄せください。
 さて、今日はここまでで終わりです。

    

 以下は付録:小学校1年か2年の遠足の時のことです
(3)弁当のほかに副食物を50円分まで持って行ってよいことになりました。このころの50円は、キャラメルの小箱10円、大箱20円、バス料金は初乗り大人10円、子供5円の頃のことです。
 祖母と果物屋に出かけ、当時まだ珍しかったバナナを買おうとすると「35円」でした。祖母は、「買ってもいいけど、あと15円だから、キャラメルくらいしか買えないよ」と。
 結局、バナナを初めて食べたのはもうちょっと後になってからでした。

(4)遠足の行き先は高崎の観音様でした。藤岡~高崎間は八高線でした。まだ蒸気機関車で、それでも乗車時間は25~30分くらいです。ところが、1クラス50人ほどで8クラスありましたから全員は座れません。各クラス4~5人が立つ必要がありました。それを誰にするかと真剣に議論しました。子供ですねえ。たしか私は、自主的に手を上げて、立つ側だったはずです。

(5)高崎駅から観音様ヘの途中に水たまりがあって、そこに少しつま先を入れて遊びながら歩く子もいましたが、私がそれをサッと除けると、それを見た隣りの7組の担任の北村先生が、「そういうところに入らないのがえらいんだよ」とほめてくれました。北村先生はオールバックの白髪でビヤダル見たいな体形をされた方でした。昔の歌舞伎役者に似た風貌でした。

(6)観音様の近くの木の下で昼食でした。新島君(じょうじ〔丈司〕といったか?)とそのお母さんたちと一緒しました。
 新島君は、体つきはどちらかというと大きいかったと思いますが、小児まひに罹り、そのために歩くときに足の甲が延びて裏返ってしまい大変そうでした。歩けないことはないですが、裏返った足を引きずって歩きますからつま先が擦れ、すぐに靴先に穴が開いてしまいます。
 そういう障がいを持っていたので、お母さんが付き添いで来たようでしたが、何を話したか記憶がありませんが、おしゃべりな私がいろいろ話したからでしょう、お母さんが突然「ずっとお友達でいてね」と。
 その後しばらくして私は転校しました。彼の消息は分かりません。どうしているか。
 ほんの断片です。
 〽あとはおぼろ~ あとはおぼろ~
 
 では。
    
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No.147 化石発見の末

2024-04-22 04:06:39 | 弁当食べ
   
    静かな朴

(1)化石発見の前までは夜型生活でした。自分の日々の作業に区切りをつけて、一日の最後に、就寝予定時間にむかってブログを書きあげる、そして日々必ず投稿することを課題としていました。

(2)ところが、No.136以降で紹介した化石を発見しました。
 化石は直径が半径約12㎝、高さ約20㎝、重さ約8㎏という大きなものでした。最初は、ちょっと大き目だけど、変成岩化していて、貫入があって石英化していたり、黄鉄鉱に変質しているところもあるので、置物にいいなとくらいに思っていましたが、周辺に大小の破片が散乱していたましたから、それを拾うと、これがまた約8㎏ほどになりました。
 それだけでも大変でしたが、まだ作業がありました。帰宅後して整理する前に、簡単にでも土やほこりを取らないといけません。何十個もあるものを、痛めないように一つ一つ洗いましたが、座ったり、立ったりと、これが腰痛を引き起こさないようにと神経を使っての作業で、疲労困憊の極に達しました。
 少しは運動しなければと考えて外出したのに、予定外の力仕事になってしまし、自分にとっては過重労働となり、夕食を済ませた途端に居所寝を始める始末でした。

(3)1日だけならばよかったですが、もともと子供のころから、化石・石器・埴輪などを収集するのが好きな方なので、その習癖が頭を持ち上げ、日々の作業をやっていても気になって気になって、結局、ふだんは週に1~2回外出すれば多い方なのに、翌日も出ることにしました。
 着いて、手前の方を見直してから藪の少し奥の方を見ると、前日と同じくらいの大きさ約8㎏ありましたが、木の皮の付いた部分が見つかりました。それで、とにかくその一帯にある石をすべて点検してみることにしました。
 見ると、流れ着いた河原の石は、砕けたものでなければ、通常は丸いものですが、ほとんどが、黒く変成岩化して、しかも木の化石ですから、木っ端のように角張っていて、年輪の曲線が見え、柾目の線が見えましたから、それをことごとく収集しました。すると、それも全部で7~8㎏になりました。
 帰宅後は、1日目と同じです。ずいぶんたくさん収集できたと満足だった半面、もう何日もやってきたかの疲労度で、バタン・キューでした。

   
     
(4)3日目は、ふと「あそこに家庭菜園用か農業用の残土があったが、あの下に残っているということはないだろうか」と思い立ちました。すると、調べたくなって、もう作業が手につきません。ということで、早速出ました。
 蔽いかぶさっている篠を切り除け、土砂を削り除けましたが、見つかりませんでした。
 ところが、大きなシャベルや草刈り鎌を持っていけばよかったですが、石割用のハンマーや小さなスコップででしたから、篠に抵抗され、土の多さに妨げられ、結局親指の付け根を痛くするばかりでした。十分にはできませんでしたが、ともかく見た限りはないという判断になりました。
 それでも、前2日よりも小さめの断片がかれこれ約2㎏見つかりました。ところが、これが、小さい分だけ洗うのに一苦労、ひざ腰の負担がさらに強まりました。
 
(5)4日目、もう行くまいと決めてましたが、ものごとなんでも続けていれば見えているものが違ってきます。目が慣れてくるというか、目が肥えてくるというか、とにかく、現場での要領がうまくなります。そうすると、小さいものでも、土に隠れているものでも、それまでよりはうまく見つけることができるようになります。それで、結局もう一回行って、「おさらい」をしてみることにしました。するとまだありました。その結果、また2㎏ほど見つかりました。木の枝のように細長くかったり、うっすらと木の皮がついていたり、黄鉄鉱の断片がついていたり、それまでの目では気が付かなかったものがいくつも見つかって、これも、帰ってから洗うのにずいぶん神経を使いました。

(6)その後はもう行っていませんが、箱に整理して、大小の、発泡スチロ-ルの箱・お菓子の箱などに分類して10箱ほどになりました。
 この化石は、上流から流れついたにしては丸みがありません。目下は、投棄物の可能性が強いです。しかし、かれこれ20㎏もある化石をポイと投げ捨てるというのも奇妙です。地質資料として価値がないとしても、装飾用の石として売ればなにがしかになるはずだからです。
 目下あちこちに鑑定を問い合わせています。興味がある人にはぜひ申し出ていただけると有り難いですが、なかなか相手をしてもらえるところが見つかりません。それで、先日、ボツを覚悟でテレビ番組で知られた「お宝鑑定団」に鑑定申し込み書をメールで送ってみました。
 結果は、あるかないか???

   

(7)そうそう、(1)の続きです。
 要するに、化石発見で疲労困憊してしまい、夕食後即座に倒れる生活になりました。つまり、朝型生活になりました。
 どのくらい早いかというと、漁師さん、豆腐屋さん、むかし田舎にいた朝飯前に草刈りに行くお爺さん、そのくらい早いです。では。
 
   
    この葉が周辺に飛び散り・・・



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No.146 公文書のこと

2024-04-21 03:53:54 | 新聞記事
   
    朴:まだ蕾

 朝日新聞(3月26日付)に「国民のための公文書」と題するインタビュー記事が掲載されました。インタビューの相手は元官房長官・首相の福田康夫氏です。

(1)まず、福田氏にミズを向けます。
 「官房長官・首相時代を通じて公文書管理法制定(2009年成立、11年施行)への道筋を付けました。」
 すると、語り始めました。
 「01年の小泉内閣発足時、新しいことを始めようじゃないか、と総理から呼びかけがあり、官房長官として公文書管理法の制定を提案したら、『それはいいんじゃないか』とそこから本格的に準備を始めました。」
 たしか「自民党をぶっこわす」とか言って支持を得て始まった内閣でした。それが、発足してから「新しいこと」を探すというのは奇妙です。
 実際、小泉内閣以降、安倍内閣を経て日本が平和国家から離脱する方向へ変えられ、財政構造もその方向へ向かいだしました。しかし、いまこの点は措きましょう。
  
(2)続いて、「なぜ公文書問題に取り組んだのですか。」と問われて、
 「国家として歴史の事実の記録をきちんと残していく。それは当然のことです。事実を知ることは民主主義の原点、民主国家の義務です。しかし、その基礎となる法律は日本になかった。」
と説明します。これは。とりあえず字面は良さそうです。
 さらに、アメリカの例を挙げて次のように言います。
 「・・・国家がどのような歴史を経て今の形になったのか。事実の積み重ねを具体的な生の記録を通じて知ることで歴史の事実を実感を持って理解してもらうことができる。それが国民の国家への信頼につながり、対外的な信用も生まれる。」
 おもしろいのはここです。
 「国家」とは何か、福田氏が考える国家がどういうものか。とりあえず。これは現在の日本の国家でしょう。福田氏は、公文書を通じて「国家・・・の今の形を・・・理解してもらう」、公文書が「国民の国家への信頼につなが」るといっています。 
 つまり、福田氏は、公文書は国家へ国民を寄らしるものだ、といっているわけです。この点、見出しの「国民のための公文書」とありましたが、これはそういう意味での「国民のための」のようですから、それでよいのかどうか。

(3)さらに、「公文書を見ればその国がわかるということですか。」と重ねて質問されて、
 「・・・歴史の記録の一つ一つがお城の石垣のように積み上がって国家を形作っている。その石垣が公文書です。公文書を通じてその国がどういものかが読み取れる。」
 この意味はどういうことでしょうか。

(4)国家は公権力体です。公的権力を持って、さらにその裏付けとなる税制などの財政収入を使って行政を行います。その過程は、ドイツ財政学以来の伝統では、官僚がそつなくそれを処理する技術として発展し、それが日本にも導入されて駆使されてきたわけです。
 それが、戦後の日本では主権者である国民の立場でなされることが憲法でも謳われるようになったわけです。

(5)福田氏は、国家を言いますが、その国家の役割は、戦前は天皇を主権者とする国家でしたが、戦後は国民を主権者とする国家へと憲法上も変わりましたから、それに伴って変わったはずです。
 そうならば、「公文書を残す」という意味も、戦前は主権者である天皇に説明をし、責任の所在を明らかにするところにあったはずであり、戦後は主権者である国民の立場に立って行政がなされたかの検証に供すべく関係文書は残す責任があるということになるはずです。

   
    夕日:明日また会おう

 福田氏へのインタビューからわかったことは、「公文書」が国家に国民を寄らしむるためのものとの発想から始まったもので、主権者である国民の保護や権利の立場からのものなっていないようだということです。
 この国の行政も財政もまだ国民の立場からの財政になっていません。だから、隠蔽とかごまかすということが起こるのです。
 公文書は行政・財政の足跡ですから、政治姿勢をきちんとすることと不可分です。それが言われるのでないとツギハギの公文書論になってしまいます。

   
   来客:

 昨日の写真の3枚のうち、1枚目は長野県伊那の清流荘前、2枚目はわが家にあった朴尾、、3枚目は山梨学院大学からの夕景です。
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