神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.133 思い出すこと 9

2024-04-07 19:58:46 | 追憶
  

(1)昨日の「ファンタージア」は「ファンタジー」の誤りでした。
 今日はユー・チューブで6人の「ファンタジー」の演奏を視聴しました。視点はどんな解釈をして演奏しているかですが、注目したのは、リュートによる演奏と、それに近いギター演奏をする人のものでした。
 なお、演奏会用?などは、演奏としては華やかだったり、個性があってよいかもしれませんが、練習者としては興味を引かれませんでした。これは、みなさんもぜひどうぞ。

  
  
(2)さて、たとえば、およその日本の地図を描いてみてください、といわれたとします。その場合、皆さんはどうされますか。たいがい、まず4つの島を描くでしょう。
 では、佐渡島はどうしますか。佐渡の人なら入れるでしょう。
 淡路島や種子島、沖縄はどうですか。
 いちばん西の与那国の人は与那国島を描くでしょうか。南の小笠原の人はどうでしょうか。
 日本の地図としてどこまでが表象に浮かべられるかは、その人の国土理解に、あるいは、ふだんの教育などに左右されるでしょう。
 ちなみに、よく政府が「北方領土4島返還」だとかいっていますけど、あれは間違いですね。北は、カムチャツカの南にある占守〔シュムシュ〕島からが、正式な条約に基づいた日本の領土です。不正な戦後処理で占拠されたものを甘受しては国際社会では恥ずかしい行為と思います。

 たいしたことではありませんが、ドイツ留学の帰りのシベリア鉄道の車中でのことです。
 安いコンパートメント〔4人部屋〕でロシア人の老婦人と話していた時、モスクワからハバロフスクまでの日程を示すためにざっと路線図を描きました。その際、中央にバイカル湖を描いて、その西にイルクーツク、東にモンゴルへの分岐点になっているウラン・ウデを記入して、その間をかまわず直線で結びました。すると、それを見ていた老婦人は、私の手からボールペンを取って、イルクーツクからウランウデの間をバイカル湖の南に迂回する経路に描き直しました。
 もちろん、私もそれを知っていましたが、日程の方に関心があったので略して結んだわけです。しかし、その人の意識からすると訂正が必要だったわけです。
 些細なことですが、意識の差というものをおもしろいと思った瞬間でした。

  

(3)私がシベリア鉄道に乗ったのは1981年9月でした。モスクワから来た列車はハバロフスクからウラジオストックへ行きますが、ウラジオストックは軍港なので外国人を入れませんでしたから、我々はハバロフスクで下車、一泊させられて、チーヒーアキアンスカヤ〔太平洋〕という港町行に乗り換え、そこから、フェリーで津軽海峡を通過して横浜に至るという経路たどりました。
 ところが、チーヒーアキアンスカヤでパスポートのチェックがありました。この時、それまで、ポーランドでも、モスクワでも、なにも言われなかったのに、係官が気づいて問題視しました。
 ほかの人は事務的にちらっと見てサッと返却されるのに、私だけ、ほかの係官が一人呼ばれて鳩首相談。それでも終わらず、こちらを見たかと思うと、上官を呼んでまたまた鳩首相談、そしてこっちを見たので、私が「何が問題ですか?」と尋ねました。もちろんロシア語です。すると、上官が「名前が間違っている」と説明しました。
 それで私は言いました。
「それは発行者の初歩的なミスです。私はわかってました。」
 というのは、OSAWAはロシア語表記ではOCABAで問題なかったのですが、SATORUはCATOPYとなるべきところをCATOPИとなっていたのです。UとИ〔イ〕は筆記体にすると同じなので、ドイツ人の発行者がУ〔う〕とすべきところを間違ったわけです。
 そのことを言ったところ、上官が「ハラショ」といって、船中の人となりました。

  

(4)もう一言いいですか?
 船は津軽海峡を通過し、翌朝になりました。
 太平洋側へ出ましたから、少し波が荒くなっていました。それで、船酔いを警戒しましたが、それは思いのほか平気でした。
 海ですから何もありませんが、太平洋の荒波を見ていると、段ボール箱がいくつか漂流しているのが見えました。私は、「誰かが荷物を落とした」・「早く知らせなければ」と思い、落下物を確認するために窓ガラスに額を近づけて左右を見ました。すると、なんと、右の方でロシア人の船員がつぎつぎに投棄しているではありませんか。
 「なんだ、あれはゴミか」と、その時は安心しましたが、よくよく考えると、ああいうことをずっとやってきたことが推測出来ましたから、なんとも複雑な気持ちになりました。
 東北の震災でガレキが問題になりましたが、ロシア・フェリーによる投棄がずっと続いていたとすると、ガレキどっちが多量なのか。
 その後、新聞の記事や投書でその件についてのものを見たことがないので、いまも気になっています。

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No.132 思い出すこと 8

2024-04-07 00:48:32 | 追憶
  

(1)今日、No.130で取り上げた安川加寿子さんの『トルコ行進曲』を、ネット検索したところ聴けました。1960年ころの演奏・録音ですから、時代性も伝わってきましたが、あの頃聴けて良かったと改めて思いました。
 併せて、最近の人の演奏を3曲聴きました。
 録音・再生技術もピアノの性能も向上していて、いまのピアノの音の方が澄んでいます。画像を通じて演奏技術〔テクニック〕もよくなっているのだろうと思われました。でも、洗練されすぎて?感動がないですね。
 まあ、高橋竹山の津軽三味線と最近のコンテストの出演者の演奏の差というようなことです。竹山のは、どんなに忙しいところでも音に丸みというか余裕があります。最近の人のもテクニックはあると思うけれども、あの鉢巻やらタスキやらをして演奏している姿に表れているように、競争している雰囲気なんですね・・・。え!、ますますわかんない?

 では、それはやめにして、一つ、できないかもしれない「自慢話し」をしましょう。 
 なにかというと、「トルコ行進曲」をクラシック・ギターで弾いているのが出てきましたことです。これも3人の演奏を聴きました。じつに鮮やかでしたから、みなさんもぜひご覧ください。といって、ミーハーな私は弾いてみたくなりました。
 え?どのくらいの実力かって?
 そうですね、「ラリアーネ祭」を終えて、いま「ファンタージア」の後半に入っています。
 ブログの時間を少し削って、1年くらい集中すれば、たぶん行けます。ゴー!
 「ファンタージア」が終ったら挑戦してみようと思います。
 もう楽譜は画像で確認できましたし、演奏の雰囲気はいつでも画像で確認できますから、大いに見込みありです。
 今年は暑い夏になること請け合いです。

  

(2)1970年4月6日、大学入学のため、知り合いの車で、当座必要な荷物と一緒に上京しました。場所は池袋西の椎名町です。
 荷物を片付けると、「上京したら、いちばんに連絡する」と約束していたY君に早速に電話連絡しました。すると、Y君は「部屋を見たいから行く」と言いました。
 椎名町駅で待ち合わせて、部屋で話しているうちに、共通の友人のA君のことに話が移り、Yが言いました。
 「Aが〔ある話をして〕大澤に顔が立たないから、会わないようにしているといった」と。
 「この話の中身はじつはウソ」でしたが、その時は驚いてしまい、なによりも自分の不名誉を晴らすことが先だと考えて、Aを尋ねることにしました。Yとは「いったん部屋に戻ってから行く」というので、池袋で別れました。

 なお、これは自分の身に降りかかったことを思い出として記録するまでで、一切はカンバコへ入れて持っていくべきものです。

 Aの家に行くと、「元気だったか、明日上京する所だった」と歓迎してくれました。
 私は「お茶など要らないから」といって、すぐに今日の経過を話しました。すると一言。
 「全部うそだ」と。
 驚いて、彼を見てもう一度話しましたが、返事は同じでした。
 唖然として言葉もないところへYが来ました。すると、Aが言いました。
 「ひどいじゃないか」
 Yは、この時はもう冷静になっていたのでしょう。
 「すまない」
 と言いながら土下座をして、そのまま帰って行きました。
 
 このとき、もう時間は夜の9時を回っていたでしょう。
 地方のことで、もうアシはないと思いました。
 Aは「いま仮免だけど送ろうか」といってくれましたが、
 騒がせにきて、なお迷惑をかけてるのはよくない、と考えて、
 「いいよ」
 といって、歩くことにしました。
 
 大学紛争のためにまともに受験もできず、仕方なく選んだ行き場でスタートしようとした初日、なんとも説明しようのない事態に遭遇することになりました。
 この日、泣くに泣けず、星空を見ながら約4時間歩いて、夜中の2時ごろ実家にトンボ帰りしました。
 母は、「寂しくって帰ってきた」と思ったのか、驚くよりも嬉しそうでした。
 A君とも、Y君とも、もうその後はありません。

  

 中身がわからないように書けてましたか?
 それなら大成功です。
 要するに、わが人生の出発点で、忘れることができない大惨事があったということです。
 では。 


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