KADOKAWA発の文芸情報サイト「カドブン」に、
東田直樹さんののエッセイ(毎週水曜更新)
「東田直樹の絆創膏日記」第11回 が掲載されました。
ご興味のある方は、 ここをクリックしてくださいね。
2018年 1月17日(水)
手話ニュースを時々見ることがある。
手話でコミュニケーションをとっている人たちは、頭の中で単語を並べながら、時に順序を変えたり、言葉を付け加えたりしながら、手の動きや表情で、相手に自分の思いや気持ちを伝えているのである。
これはかなり高度なコミュニケーション能力に違いない。
僕は特別支援学校に通っていた頃、マカトンサインというものを教えられた。
実際の動作に似た簡単な手話のような手の動きで、「ちょうだい」「お願い」「終わり」「もっと」「美味しい」「トイレ」などの意思表示を行う方法である。
僕は今でも時々、条件反射みたいに、マカトンサインのジェスチャーが出てしまうことがある。
僕の場合は、話し言葉の代わりにマカトンサインが使えるようになったわけではなく、マカトンサインで使っていた単語を口にしたとたん、その音に反応して覚えたサインを手が再現しているだけである。
生徒の中には、マカトンサインが有効な生徒もいただろう。
合う人合わない人、個人差があって当たり前だ。
手話を見ていて感じるのは、思いを受け取る側の心の余裕や言語能力の高さの重要性だ。
いくら伝えようとしても、心の中にある言葉を相手に受け止めてもらえなければ会話は始まらない。
思いをうまく伝えられない人にとって、自分が何を考えているのかを理解してもらうには、相手の想像力に頼らざるを得ない。
コミュニケーションで大事なのは、話したいという気持ちを育てること、自分に合った言葉の表出方法を学ぶことだと思う。
教える側の心構えや、生徒ひとりひとりに対する柔軟な対応こそ、学校の先生たちに求められている能力ではないだろうか。
~~~~~
【思いをうまく伝えられない人にとって、自分が何を考えているのかを理解してもらうには、相手の想像力に頼らざるを得ない】
確かにそうだな~と思います。
私がもし、言葉が不自由な人だったら、
「私の様子を見て、私の気持ちを想像してねお願いね
」と、
まさに祈るような気持ちになることでしょう。
人の気持ちは千差万別ですし、立場や情況によっても変わります。
方程式が当てはまらないのが人の気持ちなのでしょう。
だからこそ、柔軟な対応が必要なのだと思います。
果たして私は柔軟な対応をしているでしょうか?
固定概念に縛られてはいないでしょうか?
そんなことを、改めて考えたのでした。