久我山橋を過ぎてしばらく進むと、左側に京王線の検車区が続いていました。
この辺りは、川の左岸にだけ側道が伸びて、右岸は、木々に覆われた丘の斜面が川に迫ります。
丘の上は、旧王子製紙や旧財務省のグラウンドだった場所が、都立高井戸公園として整備が進められているそうです。
検車区の金網に沿ってイタドリが葉を茂らせますが、その先にアベリア(ハナツクバネウツギ)が白い花を咲かせ、川の柵側にチェリーセージが可愛いツートンカラーの花を茂らせていました。
チェリーセージの茂みが、川沿いのフェンスに沿って、白い柵で区切られたエリアに咲き連なります。
杉並区組織かボランティアかは分かりませんが、誰かが花を植えて、手入れを続けているようです。
対岸から枝を伸ばすミズキの葉の間に、小さな緑色の実が鈴なりでした。
秋になると実は赤から黒に熟し、ヒヨドリやコゲラなど、小鳥達の貴重な食糧になります。
都内の住宅地を流れる川とは思えない、緑豊かな光景が続いていました。
川に沿って自転車を進めると、スタート地点(中野区境)より6.5㎞の表示を目にしました。
ネットで調べると、この側道は自転車歩行者専用道として神田川沿いに整備されたものらしく、示された距離は中野区までの距離を意味することになります。
そうですか、中野へは後6.5㎞程なのですね。
月見橋を渡る富士見ヶ丘通りを、数台の車が通り過ぎてゆきました。
道の先に、丘へと上る緩やかな坂が見えていました。
昔神田上水と呼ばれた神田川は、そのような丘に挟まれた、低い場所を縫って流れます。
そして実は、あの玉川上水が、今見える丘の上を、東京の中心部へ向かって流れます。
玉川上水は江戸時代に、飲料水を江戸城下に供給する目的で作られた水路なので、この辺りに住む人々は神田上水(今の神田川)を生活用水に使っていたはずです。
そして多分、丘の上の土地を、旧王子製紙や旧財務省がグラウンドに転用する前、そこには、村人が薪を得る為の雑木林や畑が広がっていたはすです。
この辺りの京王井の頭線が神田川沿いを走るのも、江戸時代のころから、人々の住む町や村が神田川に沿って点在していたからに違いありません。
私は神田川の流れを辿りながら、明治、大正、昭和にかけて、この辺りの都市近郊で見られた、ノスタルジックな印象を伴う、人々の暮らしの変遷に思いをはせていました。
月見橋を過ぎると、川の両岸に、戸建て住宅が続きます。
久我山では駅の周辺に高層住宅を見ましたが、駅から少し離れた場所は建物の高さが規制されているのでしょう。
そして突然、側道脇に「みなもと3.0㎞、すみだがわ21.5㎞」と記された里程標が現れました。
え~ 源流からまだ3㎞しか進んでないの! 河口までまだ21.5㎞もあるのか!
このペースだと、今日中に河口まで行くのは無理かもしれません。
※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。
自転車で神田川 index
筆者のホームページ 「PAPYRUS」