翌朝のんびりと寝床を出て、ブランチを食べてから川下りの続きに出かけました。
中野通りの寿橋を、正午ごろに出発しました。
柳橋までは側道がないことをネット地図で確認していたので、左岸の本五ふれあい公園横の道へ迂回しました。
柳橋まで来ると、上流は工事用の鉄板で覆われていました。
橋に張り出されたお知らせに、契約不調で工事は一時中断中と記されていました。
橋から川を覗くと、両岸と川底をコンクリートで固めた川が、コンクリートの建物の間に伸びて行きます。
岸に近い、流れのない川底に、赤茶色の澱のような沈殿物を認めました。
川の両サイドに側道がありますが、私は右手にカメラ構え、左岸を下りました。
側道横に、高さ1メートル程の護岸が続き、その内側の植え込みに、ジンチョウゲやサツキなどのプレートを見かけます。
この先の、千代田橋の長さは約10mだそうです。
環七の方南橋が長さ11mでしたから、川幅は殆ど変わらないようです。
千代田橋から見る護岸に汚れはなく、橋の親柱も新らしく見えます。
柳橋で行われていた、河川整備工事を終えたばかりなのでしょうか。
氷川橋付近で、ブーゲンビリアが赤紫色の花を咲かせていました。
こんなところでブーゲンビリアが育つとは驚きです。
20年ほど前、那覇で見た、露地植えのブーゲンビリアに南国を感じた記憶が蘇ります。
真横に神田川が流れますので、都心のビル街よりも気温は低いと思うのですが。
氷川橋から100m弱ほどの場所で中野新橋が赤い欄干を見せていました。
以前の橋は「新橋」でしたが、昭和36(1961)年に作られた、地下鉄「中野新橋駅」に合わせたのでしょう、新しい橋の親柱に「中野新橋」と刻まれていました。
ところで、地下鉄丸の内線の車内に掲げられた路線図を見ると、新宿を過ぎた中野坂上の先で、盲腸に付く虫垂のように支線が分かれます。
20数年前、転勤で東京に住むことになって、私は毎日池袋から丸の内線で通勤していました。
その頃はいつも、この支線は何だろうと、不思議に思ったものです。
支線の先に、繁華街や大規模な団地など、路線を伸ばすに足る理由が見当たらないのです。
しかし今やっとその訳が分かりました。
そうです、中野車両基地こそが丸の内線を支線へと導く唯一最大の原因だったのです。
しかし、この表現は正しくありません。
と言うのも、営団地下鉄は昭和19(1944)年に中野車両基地の場所を確保しています。
昭和21(1946)年に、戦前の東京都市計画を見直した戦災復興院告示第252号で、丸の内線は中野富士見町を始点とし、新宿、日比谷、御茶ノ水、池袋を経て、豊島区向原へと向かうルートでした。
しかし後から、中央線の混雑緩和を目指し、丸の内線の始点を荻窪駅に変え、中野基地へ向かう路線を支線としたのです。
つまり、中野車両基地が確保できたことで、丸の内線が成立したとも言えます。
実際の開業時期から、そのような背景を察することができます。
新宿-新中野間・中野坂上-中野富士見町間 開業
→ 昭和36(1961)年 2月8日
新中野 - 南阿佐ケ谷間 (3.1 km) 開業
→ 昭和36(1961)年 11月1日
南阿佐ケ谷 - 荻窪間 開業
→ 昭和37(1962)年 1月23日
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