人間は生まれながらにして、ある程度の機能を有している。
原始反射もその一つだ。
生きていくためのルーティングであり、吸啜でもある。
そのシステムは自己を保存させるための、
シンプルな神経機構である。
意図なく反射的に吸うという反応は、
赤ちゃんに生存をもたらす。
けれども、その時期がある程度すぎると、
赤ちゃんの吸うという反応は行為に変わる。
吸うのをやめて、お母さんからの働きかけを待つようになったりする。
たとえば、途中で吸うのをやめることで、
「どうしたの?」とかの声をまったり、
揺すってくれるのをまったりすることである。
つまり、母親とのインタラクションを楽しむということである。
こうしたコミュニケーションの始まりは、
その後の駆け引きといった人間らしい行為を生み出していくことになる。
駆け引きは他人と共存していくためにはとても大切な人間の行為である。
もし血縁関係だけのコミュニケーションであれば、
ここまでのかけひきという高次機能を人間は持ち得てなかったかもしれない。
一方、人間は自動歩行という原始反射を一度棚上げし、
いったん、動きを減弱化させる。
それまではランダムに足のキッキングがおこっていたのが、
一度、動きを停滞させ、秩序を生み出していく。
カオスを一度集約するためには、
停滞・停止ということをしないと、
システムの変容につながらないのである。
現状の脳卒中リハやペインリハ、それはある意味カオスになっている。
一度、停止させ、そして新たな機構をつくっていかないと、
いわゆるシステムの変化にはつながらないのかもしれない。
システムは延長線上では変化させることができない。
リハの学校で習ったこと、それは何閏年も変わらないシステムなのかもしれない。
今の障害を見る方向性も同じである。
一度、停止させる勇気も僕はいるのではないかと、最近つくづく思う。
いったい、いつまでこの視点の教育を続けるのか・・・
脳卒中リハはある意味システムの方向性を別に舵をきらないといけないのかもしれない。