昨日、今日と事務的活動に精を出す。
今日は大変、自動的な一日であったため、
昨日、何をしたかを記憶していない。
ただ、原稿をチェックして、
出版社に添付書類で送信した記憶はある。
その後、12名の院生の最終審査日の調整を副査の教授陣にお願いにあがった。
12名の出勤の都合と照合しながら、
パズルを完成させた。
このような仕事は実習配置などで鍛えられているために、
何の苦労もないが、
他の仕事量が年々、
年に対して指数関数的に上昇しているために、
その時間が取れない関係で、
いつも事務的活動は後回しになってしまう。
試験前なので学生たちが来室し、
いろんな質問をいただく、
ピアジェの知能の発達を基に考える記憶・言語の発達との相互関係、
これに関する質問をもらい、
乳児から思春期に至るまでの変化を話した。
夕方、M2の藤田君、前井さん、M1の熊谷さんに来てもらい、
研究室の2年間の業績報告書の整理をした。
怠惰なせいか、ここにもこの2年間の蓄積が多いために、
時間を要し知らないうちに23時になってしまう。
遅い帰宅になり、
彼らは神座(かむくら) にむかった。
本日は、その続きを行い、
午前中はまさにパターンジェネレータ化した。
13時より大学院の環境デザイン関係のカリキュラムに関連した会議に出る。
大学院と一級建築士の関係性が変わり、
その対応に向かう。
14時半ごろ、M2の信迫君に来てもらい、
彼に資料をわたし、
その後、昨日3名におこなってもらった作業をしてもらう。
その間、投稿雑誌の検討を話した。
彼に作業を任せ、
自分は理学療法学科の会議へ。
国家試験が難しくなり、
その対応をどうすべきか議論になるが、
なかなか光明がみえない。
大学院生も学部生も、
レールを敷きすぎてしまうと受身になる。
しかし、野放しだと、方向性を見失い、フリーズしてしまう。
このバランスをどうとるかが難しい。
院生ならまだ1対1で向き合う可能性も見えるが、
学部生だとそれも難しい。
いずれにせよ、「信念」を自己に見出し臨むしかない。
記憶というものは、反復することが最大の武器なのだから。
ある程度、記憶が限界になれば、
クオリティを身につける。
それに感じる脳を身につけることだが。
これは注意機能に大きく左右される。
色んな学生・院生の作業精度を見ていたら、
最終的には思考力でなく、注意力に大きく左右されている。
メタ記憶というべき、
意識のスポットをすぐさま作動させるその機能に標準偏差が起こるようだ。
潜在的な意識を、注意機能によって、すぐさま顕在化させることは、
ある意味、トレーニングなのか、
それとも、センスなのか。
脳の電気信号の同期化の違いはどこから来るものなのか。
もはや、成人にはその同期化のコツを身につけることができなければ、
子どもにもどるしかないのか。
教育とは難しい、とここ数日思う。
awarenessという機能は、
単純な脳を活性化させるトレーニングだけでは身につかない。
だが、それをクリアするのには、
やはり、細分化機能なのかもしれない。
それには、関心と情動の作動がやはり大きく関与する。
生物学的な大脳辺縁系が、その鍵だと思うが、
それは他者がなかなか認知的に指導しても操作できない。
その教育をどうするか、
それは国家試験に通す教育よりもはるかに難関だ。
人間力をはぐくむ、生物力をはぐくむ、
いまの教育にもっとも必要な手続きなのかもしれない。
私の時代は豊かな時代。
この30代後半から40代前半はまさに、
自己中心的にこの日本で育ってきた。
それらが親となり、その教育力とは。
今一度、原点にかえるべきであると思う。
これは、「リハビリテーション」にもそう思う。
18時には今日も藤田、熊谷にきてもらい、8割完成した。
ありがとう。
お礼に臨床時代のケーシー姿、白鳥の湖を踊る自分、正月使用の車、ゼロヨン使用のZ、ヤク中のような顔、リーゼントに短ラン・ボンタン姿、高知医療の卒業式のワインレッドのスーツ姿、小学校一年生の無垢な表情、などの写真を見せた。
明日、その事務仕事を仕上げて、出張に出陣する。
あと1本の原稿は来週に行い、
再来週からは院生の修士論文の審査が目白押しである。
新しいプロジェクトも再来週から少しずつ進めたい。
2004年10月からブログをしていますが、
このgooに引っ越して、最初の背景に戻しました。
特に理由はないのですが、なんとなくです。