3年前の「困難の度合い」というタイトルのブログ
突然,脳卒中になって倒れ,志半ば目標が失われた人,それによって家族が路頭に迷ったケース.
突然,がんを宣告され,死の恐怖を感じている人,それにより愛すべき人を失う不安に苛まれたケース.
こうした方々に対して,自分は心底から共感することは難しい.
なぜなら,それに近い事態に巡り合っていないから(自分自身,母親が脳卒中で亡くなりましたが、路頭に迷うことはなかった).
しかしながら,その人たちと共に歩き,その後のプロセスについて共感することは可能と思います.
けれども,療法士自身が困難・苦労・不安など幾度とない経験をしていないと,
一緒にこれらの方々と共同注意しながら立ち向かうことができないとも思います.
今,実習に行っている学生諸君は,社会という厳しさにおいて,困難という壁をつきつけられ,それと格闘しています.
しかし,そのような困難は,先に示した病気と闘っている方の困難・不安とは比べ物になりません.
わからない,できない,書けない,などと言っていますが,
そのような困難度はみなさんが関わらないといけない人たちの度合いに比べ,とても小さなものです.
しかしながら,その小さい困難がこれからも幾度となくあらわれ,
それを些細ながらも,そして小さいながらも乗り越えていく経験(援助をうけながらかわしてゆく経験)の繰り返しによって,
そのような人たちの苦しさは心のすべてからは共感できないが,理解しようとするこころが生まれてきます.
患者さんたちはリハビリに向かい,もっとよくなろうと懸命に自分に向き合っています.
その懸命さに比べ,学生諸君の懸命さはまだまだ足りません.
懸命に真面目に努力する,そうした姿勢の繰り返しが,自分の無力さを知るとともに,
「無知の知」を生み出し,知らなければならない,
もっと技術を高めなければならないという志向性を生み出すのです.
もう一度言います.みなさんの困難・不安は比べようによってはとても些細なものです.
それをすぐさま乗り越えられなくても,乗り越えようとする姿勢の繰り返しによって,経験が構築され,信頼されるセラピストへ進化するのです.
「わからない」「できない」はたまた「レポートが書けない(レポート実習は推奨してませんが・・)と嘆く学生たち,思うように「動けない」患者さんたちの真の苦しさがわかりますか?
自分をプロテクトせず,前を向いてがむしゃらに,自分をさらけだし,できないことをできるようにするように懸命に努力し,わからないことに蓋をせず,生きていってもらいたいと思います.
涙の質を上げるよう,日々頑張ってもらいたい.