森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

本年度のニューロリハビリテーションセミナー応用編を終えて

2014年09月30日 06時26分19秒 | 日記
一昨日、本年度の畿央大学ニューロリハビリテーション研究センター応用編を終えることができました。北海道から沖縄まで300名を超える方々にお越しいただきました。皆さんにとても感謝しています。


このセミナーは全国で個人的に呼ばれる講演と違って、経験豊かな方々にも多数来ていただいているのが特徴で、いろんな経験をお持ちの方々と、私の居場所にてお話できることが楽しみの一つです。


また、このセミナー開催にあたっては、私たち研究者のみならず、事務や食堂の方々、大学スタッフ総動員でかかります。セミナーを成功に導くために共同注意するこの関係性は、実は内部の職場の空気を良くするコミュニケーションの場になっています。皆さんに参加いただけていることが、私たちの職場をも心地よくさせる、まさに「社会脳」の研究を現象学的に地でいかせていただいています。


さて、最後に皆さんに贈った言葉は、「臨床は脳のオンラインとオフラインシステムの融合によって拡がる」ということと、「好きこそ物の上手なれ」ということだったかなと思っています。今日はそのうちの前者で少し記述をしたいと思います。


今回の応用編は延べ330ページの資料に基づき、おおよそ700ほどの科学論文から「情動」「共感」「身体性」「記憶」「ワーキングメモリ」「思考」「注意」「姿勢制御」「歩行」「上肢運動制御」「道具操作」「運動学習」「社会的排斥」「道徳・倫理」「利他性」「意志決定」などの人間の機能について、主に神経科学の視点から話させていただきました。


700の科学論文は選択されたものですので、おそらくこの倍は調査している・されていると思います。

これらの知識は、来てくださった方々には「オフライン」の知識として、今後役立つのではないかと思っています。その逆の「オンライン」とは現在進行形の事象に対応する脳内情報処理です。これは臨床そのものですし、技術系のセミナーがそれに近い・・わけです。
今回のこの膨大な情報は脳のどこかの片隅に今すぐは理解はできなくても、オフライン情報として格納されているかもしれません。来るべき、未来の事象のために。


すぐさまの臨床に影響を与えるほど、脳は簡単ではありませんが、オンライン時の行動の修正のためのオフライン情報として、活かせる時がいつかあると僕は信じています。それのためには「努力する脳」をおこたらないことです。努力とは修行ではありません。使う(使おうとする意志と使い続けるという意志)ということです。




私の郷土の英雄・坂本龍馬。数ある彼の名言の中で、私が好きな名言。「人よりも一尺高くから物事をみれば、道はつねに幾通りもある。」まさにこれはオフラインによるものでもあるし、今回のセミナーの比較的鍵となった側頭ー頭頂接合部の機能でもないかと思っています。
上に記した情動からはじまる今回取り上げた人間の機能。リハビリテーションは「全人的復権」であるならば、その人間の機能に関する理解を関連職種はしておかないといけないと思うのです。


ニューロリハセミナー応用編一日目を終えて

2014年09月28日 00時00分37秒 | 日記




素晴らしい秋晴れに恵まれましたね。
出張先で「花子とアン」の最終回を見て、大学のニューロリハセミナーに。今日、はじめて注意だけにしぼった、その神経機構について話しました。テーマが注意である以上、聴衆者の注意のコントロールも実践しないと、矛盾をするため、アラートや誘導をどのように企てるか、真剣に考えたのでした。
おかげで、セミナー終了後、21時前から先ほどまで疲れて寝ていました。1時間の講演ではあり得ないのですが、やはり、ホストとなるニューロリハセミナーではチカラの入れ方が違います。
全国いろいろ講演でいっていますが、情報の提供の仕方を考えつつも、今現在(今年は2014年9月までの)情報を取り入れ、それを解釈し最先端でぶっ放すのは、このセミナーだけです。



1時間とという限られた時間でしたので、最後のdefaultと外因性なbottom up注意とのsalience swithと目標志向型の認知における前頭-頭頂ネットワークによるswitchの情報を詳しく説明できなかったのが残念です。これに関しては半側空間無視のときに話します。
私たちはよくある歪んだ解釈を極力せず、ありのままの情報(結果)を提供しようと心がけています。それが学者です。わからないことをわかったようにはしゃべりません。
例えば、養成校で関節運動学(基礎運動学)を学ぶ際、いきなり臨床家が臨むような、よく様々な講演であるようなびっくりするような歪んだ情報提供はしないでしょう(メソドロジーの講習会でよくあります)。それに私は閉口することがしばしばあります。そうした解釈は時に間違って伝達されることが多いわけです。脳を学ぶ(注意と報酬の関係性)とその辺りも理解できるでしょう。
実は私も外部で講演で呼ばれる時は、臨床家にうけがいいように、データ・手続きを説明せず、結果のみを出して臨床に結びつきやすい情報のみをフィルターにかけ、それを用いて解釈で話すことが多々あります。その場合、聴衆者の臨床家の方々にはとても受けもよいようですが、実はその自分があまり好きではありません。その場だけの腑に落ちる情報にとどまってしまうからです。腑に落ちるのはもっと先、そう自己の経験からで良いのです。臨床家の皆さんにとっては、先の臨床の現場でです。その場で腑に落とさせる手法は口がうまければできますが、本質的な腑に落ちるというのは自己の体験を伴っています。
僕の夢・目標は標準生理学のような教科書を理学療法学・作業療法学が完成させることができるかなのです。今の標準理学療法学・作業療法学をみてみると、その個人の解釈だらけになってしまってるのが現状です。それは本当に一般化されるのかと?になることだらけです。これでは学問として認められません。
解釈は最先端でなく最前線として議論という手続きで行えばいいと思っています。そのための対話だと思います。その場合は大いに私の解釈を加え、臨床との接点を考えます。しかしながら、それは個人的であり、仮説であり、一般化された公共的なものではありません。ニューロリハセミナーの講演(一方向性)では私の学者としての意識からそこはしていません。そしてうちのメンバーもそれを理解しています。私たちのやるべき仕事は解釈のもっと前段階にあると。
解釈的講義は、12月の臨床編で少し出る程度です。それを本格的にやるのは、症例を検討するニューロリハビリテーションフォーラムです。そこまでには関節運動学と同じように、絶対的な人間神経科学の基本的知識が療法士達には必要なんです。評価を関節運動学だけでなく、人間神経科学を用いてできるか、まずはそこからスタートしてみましょう。
巷に存在するセミナーの流暢さかつ綺麗さはむしろ疑ってかかれ!なわけです。自分の概念・理論を正当化するトリックなのかもしれないわけです。

システムの揺らぎと矛盾

2014年09月03日 17時15分54秒 | 脳講座



なかなか完成された社会は動く事はない。今色々取り上げられている臨床実習なんかその典型だ。しかしながら、その一方で、すぐさま動けば、それは草創期な、大した社会構造ではない。むしろそれは脆弱な社会である。個人の動きは全体からみれば些細な、見える事のない、感じる事のない安定した立位のような揺らぎにすぎない。完成された脳の中での一つの物理的なニューロンの興奮が脳のシステム全体に影響を与えるなんてないものと同じように。

一方で、時に動けば動くほど無力を感じる。興せば興すほど、著せば著するほど、自己の意図と環境から得るフィードバックの実際の間に誤差・矛盾が生まれる(だから人間は事を興すことをやめようとする)。個人の脳のシステムはそのようにできている。だから、「実績」とは、その個人がどれだけ無力を感じているかだと思うようになってきた。だから、その無力さ(勘違いしないでほしい。堕落者ではなく事をなそうとしている人たちの無力さだ)を感じていない、俺いけている感満載の若手や中堅は本当の意味での実績は積んでいないと思うのである。

生きて死ぬ私である人間にはそのステージ、グレードでの社会的役割がある。その役割を全うし、後世にその生き様を伝える事が人間としての使命・仕事である。

人生を逆算すると、私自身も、その一人称として時間がなくなってきている。やりたいこと、興しておきたいこと、著しておきたいこと、調べておきたいこと、そして何よりも楽しみたいこと、がいっぱいあって、、逆算して行くと時間が足りない。物足りてないなかで終えて行くのが人間なのかな。。。その意志を誰かが継ぎ、良き方向にその意志を埋葬してくれるのが社会の中の人間関係なのかもしれない。いや継がれようと思って生きているわけでない。それが良いもの(こと)と思って行動を続けるだけなのである。

ただ言っておきたいのは、自己の信念を「闇雲」に押し通さず、冗長性と柔軟性をもってその時代(空間と時間)を受け入れ、いや飲み込まれるようなそぶりで、環境の流れという時制に基づいて生きなければならない。でないと自己の進歩は止まるし、単なる口だけ人間(狭小化された空間;人間関係で過去を語るだけの後ろ向き)になってしまう。

けれども、最終的には「おのおの、その志のままに生きよ(坂本龍馬)。」になるわけである。I'm 土佐の男。。