森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

崇拝と尊敬

2016年04月03日 22時17分09秒 | 脳講座
本日は名古屋で5時間講演



USN、身体失認、失行、前頭葉障害の神経メカニズムと、そのメカニズムから考える臨床推論について話しました。既存の治療理論からロジックをつくるのではなく、評価結果(行動・現象)、そして脳画像の事実から、治療を選択(意思決定)することの手続きを神経ネットワーク(例えば背側経路、腹側経路)から説明しました。

これに類似した内容で、USN、失認、失行に絞ったものは、今度東京で話します。https://tap-labo.com/events/detail/86

1週間前の運動障害の講演の5時間と比べて、少々疲労感が少ないのは、どうやら今自分が興味をもって研究したり、臨床を考えたりしている事柄だからでしょうか。。。
時に治療理論や手段・方法から考えてしまう臨床ベクトルは、いつしか、その治療理論や、それを提唱する人を崇拝するとった意識におちいってしまいます。今日の帰りの近鉄列車で、友人の奥埜氏とメールのやりとりしていた中で、彼からは「尊敬することとと崇拝が混同しているのが問題だ」という強いメッセージをもらいました。

講演を聴いた方々からしばしば生まれる「あの(カリスマ)先生がそう言っていた(からそうにちがいない)」という崇拝的意識は、「絶対視・神格化」を作り出すことになったりします。こういう志向性は、地球上の生物で唯一宗教を生み出した人間らしさ(宗教は最高の高次機能)でもありますが、その際、問題となるのは、善悪の判断の責任を、自分自身でなく、それを提唱する他者や理論(もの)に置き換えてしまうことです。

崇拝でなく尊敬するレベルに止め、公平的視点を捨てず、あくまでも起こった事実の責任は、物や理論・手段に擦るのではなく、自分でとらなければなりません。むしろ、自分で責任をとる、あるいは随時判断を下さなければならないという恐怖を隠すために、人間は崇拝、絶対化という志向を作り出すのかもしれません。そういう意味で、今の事実(例えばサイエンス)を知るという志向性は忘れてはなりませんね。



帰り際、多くの若い療法士(鹿児島から来られている方などからも)から質問をもらい、ちょっとだけど時代が進むんじゃないかと期待しました。報酬価値ですね。
金山に泊まったことから少し時間ができ、名古屋ボストン美術館に寄ることができました。ルノワールのダンスはオルセーにある「都会のダンス」「田舎のダンス」しか鑑賞したことがなかったのですが、今回、米国ボストン美術館の「ブージヴァルのダンス」を初めて鑑賞することができました。この経験が(フランス好きの私にとっては)ひょっとすると疲れを少し和らげたのかもしれません。脳はある種、簡単に騙せるわけです。パラドックス的に捉えれば、下降性疼痛抑制なども含めて、報酬系作動はある意味要注意なわけです。

待つということ

2016年04月03日 22時16分33秒 | 脳講座
本日は教職員会議のオンパレードでした。新任の方々を迎え、新しい顔を見るということは、嬉しいことだなあと思う反面、退職した方々のお顔が見れなくなるということは、寂しいことだ、と会議に出ながら思った次第です。

それと同時に、定年を全う(勤め上げる)して退職された方々も今回は多く、そういう人生って良いなと「強く」思うところもありました。
とかく現代は、派手な(勢いのあるように見えて我慢できない)人生に憧れる嫌いがあり、地道に生活に土着しながら生きようとする姿勢を軽視するような気がしてなりません。

100人いたら100人意志や意見を発してしまえば、混乱必至です。脳幹や小脳、はたまた基底核のような存在が組織には必要なわけです。前頭葉ばかりだと若い組織はイケイケでいいのですが、年数とともに息切れし朽ちてくるかもしれませんね。

さて、4月1日は、我々研究機関は科研費採択の日でもあり、twitterではそのことに関する記載が満載でした。科研費取得のために研究を行うというのは、学会発表するためだけに研究を行うと同じぐらい本末転倒なのですが、それでも仲間が採択されると嬉しいものです(私は継続なのでただの4月1日でしたが。。)。
こうした税金によるオフィシャルなお金をいただけば、それ相応に、社会に貢献しなければならないというスイッチが入り、そうした意識は研究者にとっていいことかなとも思っています。

軽い研究にならず、じっくりと丁寧に行い、数ではなく、社会的にインパクトのある質の高い研究にしていきたいですよね。
とかく現代は、「待つこと」ができなく、すぐさま発信することに主眼が置かれています。例えば、今は「メールの返信も待てない、だから待てずにまた送る→カップルが喧嘩する」の図式が成り立ったりしますが、昔は「戦争で帰ってくるかもどうかもわからないが待ち続ける」という心の持ちようがあったように思えます。
(学生の成長を)待つということ(やたらめったら自分の経験に持ち込むような介入をせず待ち続けるということ)は我々教育者にとって最も大事な意識かつスキルだと思っています。

少々、大げさで古い人間の思考・たとえだとも思われるかもしれませんが、人の思考や心の熟成にも大いに時間がかかり、これは知識やスキルの涵養も同等であると思っています。

そしてそれは若い私達の業界においても、20~30代そこらで「やたらめったら」(借り物で)発信せず、地道に丁寧に取り組む時期がないと、40代こえると、その軽さが明白になってしまうかもしれません。

根拠のない自信という言葉は、時に行動を起こす原動力になり、かっこよくも思えたりしますが、私たち医学や健康を取り扱う仕事にとっては大いにミスリード(時にメディアのように)になってしまいます。営業とは大きく違うことを、そして、器の大きさと根拠のない自信は異なるということを、(私自身も含めて)肝に銘じておく必要がありますよね。このようにfacebookに記事を書いていることも、実は待てていないことになりますから。。。

学長交代にあたって

2016年04月03日 22時15分23秒 | 脳講座
別れの季節ですね。自宅前の桜も膨らみ始めました。昨日の教授会にて、冬木智子 学長が退任・勇退されました。御年94歳です。「健康でいられるということが幸せである」という、昨日の言葉は、その人生の遍歴から、相当に重く真摯に受け止めることができました。

http://www.kio.ac.jp/fuyuki/kokoro/index.html

畿央大学に着任してから、たかが12年ですが、着任前の桜井女子短期大学での面接でのインパクトは、今なお心の中に残っています。
「ある着任予定の方が県外から通われる(それ以外は臨床)ということで、2~3日間ほどしか大学にいないと言われ、断りました。それでは教育はできません。」

この言葉は非常にシンプルですが、(学生に寄り添い同じ目線で見ようとする)教育は臨床の片手間にはできない(その逆もしかり)ことをほのめかしています。いかにも怪しそうな大学立ち上げの人しかみていなかった私は、その心に打たれ、縁もゆかりもない奈良にうつろうと決心したわけです。この心が伝搬し、手前味噌ですが、畿央大学の今の教育にいかされ、国家試験の合格率をはじめ、いろんなところに影響しているのではないかと思っています。

その後、縁あって、大学広報誌のカトレア通信で、冬木学園60周年記念対談を行わせていただきましたが、後の雑談で、私のFD評価(学生からの授業評価)に触れられ、「あなたのこの得点は愛嬌があるからですよ。」と、私にとっては変化球的な考察に驚いたことを覚えています。その後、人が人を嫌悪に思わず、好きで入られるのは、かっこよさでもない、きれいさでもない、まさに愛嬌(赤ちゃんをみればわかります)なんだと腑に落ち、これは今の私の教育方法や生き方に大いに活かされています。

米寿を超えられ、私の研究室が3階にあるときは、何度か突然に研究室に立ち寄られ、「記憶力が最近落ちてきたんですが、脳からみてどうすればいいですか?」→「そういうメタ認知ができていて十分です。卒業式でもまだ原稿なしでスピーチできるので大丈夫です」、「腰を痛めたのですが、整形外科の医師はヒールは駄目といわれたが、どうもヒールじゃないとしっくりこない(重心が安定しない)」→「脳のなかにはボディイメージがあって、長年履いてこられたものに意識は定着しています」などと、このやりとりを今思うに、フラットな精神をもたれている方だと改めて思うわけです。

そして、もう6年も前になりますが、国際ソロプチミスト連盟での、私よりも年配の女性の方々に対する講演など、いろんな経験をさせてもらいました。それは女性の会なのですが、学長自身は女性だの男性だの境界線を引かないニュートラルな意識をもって教育に携わっている(いた)と記憶しています。人間は知らず知らずにして、国境と同じように、性別(ママとかパパも含めて)や「~~~家(者)」と、線を引きたがりますが、境界は自分を慰めるのには便利ですが、その境界によって、発展を阻害する対立や、ひいては区別(差別)される人ができてしまうことを忘れてはいけないですよね。