森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

観察者の視点

2014年10月07日 08時34分58秒 | 日記



昨晩(midnight)ひょんなことから久しぶりにニューシネマパラダイスを見ました(これまでこの映画は音楽ばかりにきをとられ、何度も何度も意図的には見ようと思いませんでした)。
米国の映画でなく、欧州の映画は一見退屈で、退屈力を養うトレーニングにもなるのですが、カメラアングルや揺らぎ等、そして前半から後半に至る構成等等、認知・技術面でとても勉強になりますし、何よりも、外部刺激からの情動を頻繁に喚起させ、すぐさま反応をおこさせる大脳辺縁系作動を中心とした米国様な映画(結果は明白な)でなく、欧州の映画の特徴は大脳皮質を作動させ、じわじわ内面から沸き立つ情動を起こさせ、思考(結果・解釈が多様な)させるように構成されています(これはmovieと cinémaの違いでもあるかもしれません)。
だから「楽しかった~♪」とかでなく、自己の意識としての残像・後味があるのです。一方、皮質の下でみることが多い米国映画は、現実世界とは離れる作品が多く、娯楽力(アミューズメント&ファンタジー)としては圧倒的な力(実際的に面白いしわかりやすい)を持つのです。こういうのは本邦のセミナーの傾向にも通じますよね。けれども果たして思考力は身に付いているのか?とか。。。先週末のセミナーの質問でも痛感しました。。文脈から間を読み取る(外部情報のないところに自らの志向性から内部情報化する)能力が落ちているようにも思えいます。表面だけの分かりやすさは作り手・しゃべり手の意図によるものが多いわけで、だからむしろ臨床的といわれても現実ではないことも大いにあります。
学術論文もその傾向がありますよね。結果を明白に構成しないといけないから、英語が国際語になっているから、「待てないから」多いわけで、実は捨てられるもの(価値のない論文)を含めると、今なお古典として語り継がれている、残像として検証可能性に残っているものは、率的に旧ソ連を含めると欧州が多いのではないか?と思ったりします。
「待つということ」、そして内部情報化することは自己意識の鍛錬にもなります。
今回、私自身の記憶を辿りながら見ていたわけですが、昔、若いときにみたイメージと、今回異なったのは事実です。それは、私の「自己の経験値」が違うからと思えました。見え方が違うとは、違った視点で観察できるということ、私自身の人間力(TPJ?笑)も年月を得て成長しているのだと、自己の意識から思うことができました。
さてこの映画は、変化のない世界(自己と外界)の素晴らしさと、変化のある世界のすばらしさ(自己と外界)の両義性を教えてくれます。そして教育とは何かを考えることができます。変化の有無や共同注意としての教育の素晴らしさは、この映画の一部のストーリーを利用して、次の機会に書く事ができればと思います。
年をとったせいか、ハラハラドキドキの映画を選択しなくなった、この潜在的意識はソマティックマーカーによるものかもしれません。。。笑。肉食(比喩も含め)でなくなる意識も含めて。。。

シンプル、イズ・・

2014年10月04日 20時10分46秒 | 日記
シンプルに生きる。子供達を見ると実にそう思います。大人はそれに理屈をつけていきます。良い言葉でいえばそれが理論であり、賢さでもありますが、生きるということだけ考えれば、もっとシンプルでいいかもしれません。
1週間前のニューロリハセミナーで最後同僚の松尾氏が示した論文は、シュワルツ達の最近のもの。

http://www.pnas.org/content/111/30/10990.full

やりたいことに対して、「教養のため」「人類のため」「出世のため」などと、先に理由付けする人ほど長期的な結末が良くなく、そうではなく「好きだからやっている」というスタンスがベストだということです。
実は僕の仕事の意識は常に「好きだから」ということの連続でした。だからこれまでいろんな軋轢があったのも確かです。けれども「脳」が好きでたまらない。「リサーチ」が好きでたまらない。「歴史」が好きでたまらない。このスタンスを捨てた事がなく、このプロセスが今の僕の仕事に活かされているように思えてきました。
「患者のため」「組織のため」「学生のため」「業界のため」「お金のため」「家族のため」。。。などなど色々ありますが、こういう理由付けは、結果がそうならなかった場合、それを継続しないことになることにもなります(経験を蓄積すればその限りではないと思いますが)。
好きだからやる。実にシンプルです。対象者のリハビリテーションの概念に、これ活かせますよね。変に理由づけて、その人の人生を規定する必要性はありません。
僕自身、今日少し一人の時間があり、今のこの仕事のスタイルは「好きなのか?」という問いを自分に投げかける事ができました。




岡山から三宮に入っています。明日は「脳」と「身体」はシンプルにできていることを話させてもらいます。けれども論文(スライド)は多い自分のスタイルは貫きます。

研究センター着々と

2014年10月01日 23時46分16秒 | 日記
本日は大学院教育学研究科の「発達脳科学」の授業の1回目を行いました。今年から教育学研究科が開設され、私も健康科学研究科だけでなく、そちらの授業も行っています。今日は現場の教諭の方々が熱心に聞いてくれました。総論から「うつ」「社会的排斥」をとりまく環境と脳について、脳の構造と機能から話しました。
さてさて、今日もニューロリハビリテーション研究センターはにぎやかでした。嬉しいです。
私たちのニューロリハビリテーション研究センターも徐々に完成しつつあります。本日は定期的に上映しようと思う映画(DVD)が20本ほど届きました。もちろん、障がい、病気、脳、認知、感情、人生などを取り扱った名作たちです。アメリカ映画だけでなく、フランス映画、イタリア映画、そして日本。日本映画はとても素晴らしい。
畿央大学の建学の精神は「徳をのばす」「知をみがく」「美をつくる」です。
「のばす」と動詞がついた「徳」は、まさに人間が祖先からつながれてきた、そもそも持ち得ている「利他性」「社会性」です。これの実践は、センターをつくったことによる「時間」「空間」の共有からすでに行えています。
そして、「みがく」と動詞がついた「知」は、原石である学生や院生、あるいは地域住民の方々や現場の人々が、私たち研究者と互いに相互作用することで、知を創発するということです。石が石によって磨かれるように。これに関しても、センター専属の研究者のポスト(まだ足りないですが)をつくることで、徐々に可能になりつつあります。
そして、「つくる」と動詞がついた「美」は白紙のキャンパスから作り上げていく作業です。これには創造性がつきものですが、創造性を宿す脳の領域は様々な情報を統合するところでもあります。狭義のサイエンスや既存の学問のみでは新しい「美」をつくることはできません。そこに彩りを与えてくれるのが文化です。リハビリテーションは人々の人生を扱います。人生は人それぞれの文化でもあります。若い学生達には多くの文化や文化的活動を通じて幅広い心を涵養してもらいたいと考えています。
いつも音楽に溢れる研究センター(私がJAZZを流しています)。映画の次は文学作品です。彼ら彼女らには、様々な事象を扱った作品だけでなく、日本が誇る純文学にも触れてもらいたいです。その文脈や間を読み、創造性を養ってもらいたい。
JBLのスピーカーがくれば、定期的に映画を上映します!それはセンター前にイーゼルを構え、告知していきます。教養の涵養こそ大学生としてもっとも大切なものだと、私たちの信念に基づき教育させていただきます。


http://www.kio.ac.jp/nrc/