昨晩(midnight)ひょんなことから久しぶりにニューシネマパラダイスを見ました(これまでこの映画は音楽ばかりにきをとられ、何度も何度も意図的には見ようと思いませんでした)。
米国の映画でなく、欧州の映画は一見退屈で、退屈力を養うトレーニングにもなるのですが、カメラアングルや揺らぎ等、そして前半から後半に至る構成等等、認知・技術面でとても勉強になりますし、何よりも、外部刺激からの情動を頻繁に喚起させ、すぐさま反応をおこさせる大脳辺縁系作動を中心とした米国様な映画(結果は明白な)でなく、欧州の映画の特徴は大脳皮質を作動させ、じわじわ内面から沸き立つ情動を起こさせ、思考(結果・解釈が多様な)させるように構成されています(これはmovieと cinémaの違いでもあるかもしれません)。
だから「楽しかった~♪」とかでなく、自己の意識としての残像・後味があるのです。一方、皮質の下でみることが多い米国映画は、現実世界とは離れる作品が多く、娯楽力(アミューズメント&ファンタジー)としては圧倒的な力(実際的に面白いしわかりやすい)を持つのです。こういうのは本邦のセミナーの傾向にも通じますよね。けれども果たして思考力は身に付いているのか?とか。。。先週末のセミナーの質問でも痛感しました。。文脈から間を読み取る(外部情報のないところに自らの志向性から内部情報化する)能力が落ちているようにも思えいます。表面だけの分かりやすさは作り手・しゃべり手の意図によるものが多いわけで、だからむしろ臨床的といわれても現実ではないことも大いにあります。
学術論文もその傾向がありますよね。結果を明白に構成しないといけないから、英語が国際語になっているから、「待てないから」多いわけで、実は捨てられるもの(価値のない論文)を含めると、今なお古典として語り継がれている、残像として検証可能性に残っているものは、率的に旧ソ連を含めると欧州が多いのではないか?と思ったりします。
「待つということ」、そして内部情報化することは自己意識の鍛錬にもなります。
今回、私自身の記憶を辿りながら見ていたわけですが、昔、若いときにみたイメージと、今回異なったのは事実です。それは、私の「自己の経験値」が違うからと思えました。見え方が違うとは、違った視点で観察できるということ、私自身の人間力(TPJ?笑)も年月を得て成長しているのだと、自己の意識から思うことができました。
さてこの映画は、変化のない世界(自己と外界)の素晴らしさと、変化のある世界のすばらしさ(自己と外界)の両義性を教えてくれます。そして教育とは何かを考えることができます。変化の有無や共同注意としての教育の素晴らしさは、この映画の一部のストーリーを利用して、次の機会に書く事ができればと思います。
年をとったせいか、ハラハラドキドキの映画を選択しなくなった、この潜在的意識はソマティックマーカーによるものかもしれません。。。笑。肉食(比喩も含め)でなくなる意識も含めて。。。