森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

揺らぎの周期と安定性

2007年02月25日 01時36分56秒 | 過去ログ
しばらくぶりのUPだ。
月曜日は協同医書にて新著の打ち合わせ。
御茶ノ水から本郷までの下町を歩き、感慨に浸る。
いや~東京はいい。

専門書出版社から専門書ならぬ一般書ともいえず、そのラインで、「脳」について語る、見る、学ぶ。

私は脳の標本を見ると、愛おしさを感じる。
この「脳」はあなたからみて、そうとは感じないだろう。
ヒトが人間である所以だが、その表現についてこれから悩みたい。

帰りの新幹線の中で、私が見ている世界の安定性について考えた。
目の前のこの世界が明日崩れたなら・・・
この現実がたとえば阪神大震災であったり、大事な人がいなくなったり、など「私自身」の目(世界、脳)なんだろう。
毎日、ニュースではいろんな事件が放送されており、それについて腹が立ったり、同情したりと脳は賦活しているが、私の見ている世界にはやはり大きな乱れた揺らぎは起らない。
明日も私の見ている世界、感じる世界は同じであろうという予測が立つからだ。
いろんな不安定性はあろうが、所詮、予測の範疇であり、それは本質的な「不安」とは言わない。
すなわち、揺らぎの周期が安定しているんだ。
揺れているには違いない。
心は常に揺れている。
しかし、その世界が今崩れ落ちることは無い。
診療報酬が変わろうが、そこまでの揺らぎの周期の乱れは起っていないのも実情なんだろう、セラピスト諸君は。

この揺らぎが不安定になれば、自分の見ている世界を他人に押し付けようとするんだろう。感情的になるとはそういうことかもしれない。



セラピスト業界にすむ人たちも、まだまだ、多様性の中から選択できる社会観があるんだろう。

これはこの実習期間中に面談した学生にも感じた。

「甘さ」とは、「多様性」のなかの「選択性」にも感じるが、これは豊かさゆえの社会の現実なんだろう。
社会が多様で膨らんだんだ。
大脳と一緒かも。
逆に本当の哺乳類らしさが失われているのかもしれない。

学生との面談のなかで、仕事に向いているとか、やさしさの定義だとかが出たが、ある仕事に向いているだとかいうのは、自分で決めるものでない。そんな明白な選択で、枠組みで、社会が成り立っているのでない。いつのまにかその仕事についているのも事実である。そういう世の中だ。いろんな選択肢があったが、なんとなくこの道にきているのも事実だ。

また、「やさしさ」なんかも他人が感じるもの。必ずしも言語コミュニケーションに長け、患者と対話しているセラピストが優しいとか限らない。「心の目」とはそんな単純なものでない。

人格も、それは相手が決めるものだと感じた。

前も言ったが、QOLとは選択性、そしてその選択の自由、秩序の中の自由なんだろう。

鼻がかゆいときにかける(運動)。
富士山を車窓から見たいときに見れる。
好きな音楽を聴ける。
好きな職業につくための努力を行う。

いろんな自由だ。

それがひとつも無い。それが人間は怖いんだ。

発展途上国の人たちはどうなんだろう。

軽はずみにハングリー精神というが、その一線をほとんどの人は超えていないのだろう。

靴下を履きたいときにはけない、脱ぎたいときに脱げない、そんな母親は、自らで自らの時間(意識)をとめていたように感じた。

その意識の休止によって、記憶がモザイク化あるいは歪んでおり、その断片化を埋めるように空想が付け加えられていた。これを通常は錯話とかいったりするんだろう。そんな単純なものじゃないんだろう。人間の脳の保障システムかもしれない。
母親の「私自身」がなくなりつつある。
脳って難しい。


そんなことを考えながら、月曜は2回生の試験打ち上げに出て、遅くまでいたりするから、翌日から、全身脱力、喉は激痛、全身は鞭打ちのように硬直、痛みなどから、ほとんどの仕事を止め、ただ、大学に出て学生の実習のことや、事務的処理、そして実習地訪問のアポなどの仕事(これが通常の教官の仕事)のみにとどめ、研究はぴたっと止めていた。
タイプするのも上半身がきつく、やっと向き合ったしだいである。

昨日あたりから徐々に復活した。
今週末(今日からだが)の久しぶりの休みで、気が抜けたんだろう。
これが本当の身体なんだろう。
気でなんとか乗り切っていた。
週末が週末らしいってすばらしい。
自分がこけてしまえば、研修会・講習会・講義がすべてストップするのは心身ともに、やはりつかれるんだな。
芸能人・スポーツ選手は、これに加えて競争ストレスともたたかってるんだろう。
少なからず大学にもあるが。

昨日復活したのはわけがある。

おとといの夜中から、ヤードバーズのビデオを見たのだ。
久しぶりに。
Keith Relf のハーモニカはいい。ボーカルは・・・だが、やっぱり、ハーモニカはいい。

Clapton 時代よりも、Jeff Beck 時代がやはりいいな。

Train Kept A Rollin'はもちろん最高。
そのあと、すかさずaeroバージョンもCDで聴いてしまい、ベースを弾いた。

Jimmy Page とのツインギターでHappenings 10 Years Time Agoをやっているビデオを見ると、ZeppelinはやっぱりThe Yardbirdsなんだなとつくづく思う。

そのあと、Creamのベスト、そしてZeppelinのⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳをすべて聴いた。
徹夜・・・

今日はJohnny Winterのサム・ピッキングのJamping Jack Flashを見て、janisのSumer time、ZeppelinのComunication breakdownを観て、思わず、aeroのライブアルバム、そして、なぜかBlack Sabbathをかけたが、何曲か聴いてやめた。

そのあと、Boléroを聴き、Rhapsody in Blueのオーケストラを聴き、今は、Simon and Garfunkelを聴き終わり、イパネマの娘を聴きながらブログを書いた。

その前に遅れていた非常勤の試験の作成、そして、もうひとつの非常勤の試験の採点を行い、終わったところ。やっと向き合った。

今はキャロルキングのYou've Got a Friendを聴きながら、ルネ・マグリットの人間の条件(http://cgfa.sunsite.dk/magritte/p-magritte8.htm)を眺めている。そろそろ就寝モードか・・・最後にGilbert O'sullivanでも聴いておこう。

なんか曲が乱れているが、乱読も大好き、乱聴きも大好きということで。
僕の中の脳では乱れてはいない。
私の脳とあなたの脳の違いだ。

no music、no life、あるショップはそう書いているが、やっと今年度これだけ音楽が聴けて自分の生活を取り戻せたような気がした。

しばらく難しい~文章は書かない、1週間は。

3月末に2本の原稿(ひとつは原稿用紙50枚だぜ~~)を仕上げないと。

本はその合間にしよう。4月にはなんとかしたい。

休みまっせ~ やりまっせ~

Koji ! お帰りなさい。
少し話したいことがある。my motherの件で。





しるし

2007年02月19日 06時34分20秒 | 過去ログ
昨日は午前中より岐阜で講演。
オープニングに照れながら、yahooブログ時代はあんなにくさいことを書いていたんだと気づく。もう一人の自分視点で。

午前中は「脳の情報処理」「脳の中の身体」について話をする。
情報処理の視点ではセラピスト自身の脳に気づいてほしい。
私の物事に対する考え方は私自身の今までの経験記憶によって作られ、情報を処理するときも実はそれが左右する。それを超える強烈なインパクトが必要なんだ。

「脳の中の身体」は知っていたと思うが、目にみえない自分を信じるという視点を理解していただければ患者さんに接するときすこしは変わるだろう。

意外とのどがもったな、と感じた。

午後は3時間だ。

「運動が生み出されるということ」、「学習の脳内表象」、「感覚の情報変換」、そして「ロマンティックリハビリテーション」などなど。

運動は目に見える、それまでに脳の表象、情報分析、期待される運動感覚(知覚仮説)は・・・ そういうものの見方もある。いやそっちが脳にとっては本質だ。

のどが痛い、激痛だ。

左だったが、右に変わった。
からだのサインは面白い。

準備していただいた岐阜の皆様感謝いたします。
なんか雰囲気のいいホールだった。
前から客席を見ていて、迫ってくるという角度だったので。
エンディングを見て、次もがんばろうと思った。
がんばれるときにがんばり、がんばれないときはがんばらない。
どこまでメッセージとなったがわからんが、もののみかたが変わればいいと思う。
「しるし」としては、その役割を果たせたことだと思う。
今回の講演は5時間だったが、よいほうだったと思う。


遅くに東京に入った。

今朝起きて、やはり体調不良、仕事、見舞いをして、奈良に帰る。

体調と相談し、2回生の打ち上げに参加するかを決める。


今週末は念願の休みだ。

正月を除くと週末が休みなのは実に8月末以来だ。



いろいろあるが、チャレンジしてほしい

2007年02月17日 23時36分28秒 | 過去ログ
昨日は岡山の夜学の人間発達学の最終講義。
基本的な講義をした後、これからのセラピストじんせいについて一瞬語った。
今日は岡山を出て岐阜に入る。

前夜祭的、イタリアン、アンド、フレンチレストランに行き、ワインばかり飲む。
質だけでなく、量もすごい。
最近、アルコールばかり入り、食事にありつけない自分に気づく。

さて、明日は5時間講演。
久しぶりです。3時間を越えるのは去年の泉州ブロック、pos.com依頼かな。
明日、朝講義のスライドの調整をする。

河村先生をはじめ岐阜のスタッフに感謝します。
いろいろあるが、みんなチャレンジしよう。
それを感じた。

明日、講演を終わり次第、東京へ。

みんなとの出会いに乾杯。


しかし、アルコールがしみるぜ。

3月のbay 5ではなんとかもってほしいぜ。

T-REX, stones, Chuck Berry, Janis or oasisでいくぜ。

そして、よしはる、タバでoasis, aero, zeppelinでいこうぜ。

心配ありがとう。なんとか、ボーカルもたせる、のどが切れるが、切れてもいいよ。

俺はロッカーだから。



とにかくもってほしい

2007年02月16日 22時57分50秒 | 過去ログ
昨日は摂南総合病院で勉強会、その後、懇親会に出るが、調子が悪くのみも進まない。電車の中からめまいがはげしく、のどには激痛が。ワインがしみる。

だが、近鉄の終電には間に合わず、JRで王寺、そしてタクシーで。
あさ、ついに熱かな。と感じ、今日、昼までに完成させないといけない原稿には手をつけず、ひたすら休んだ。

むろん、日曜の講演スライドには手をつけず・・
家を出て、岡山に。最終講義だ。
熱をごまかし、なんとかたどり着く。

しかし、声が出ない。
無理に出すと「のどを切られる」思いだ。

21時10分まで講義を行い、懇親せず、早々に。
とりあえず、加湿器は借りたが、明日、準備しよう。

明日、岐阜にまいります。

なぜだか焦る、やばいぞ・・・

2007年02月15日 00時11分47秒 | 過去ログ
今日は午前中に大学の学科を跨いだ共同研究の計画について書類(原稿用紙10数枚かな)を書き、その後、2行ほど原稿を書いた。2行である・・・

午後はまずは4回生について「認知運動療法」の講義・演習を行う。
もう大学の講義は終わっており、これはあくまでも自由講義として。
今まで1回も講義・演習を系統でしてなく、認知運動療法の施設に就職する数名を中心に行う。
準備なし、資料なし、あるのは道具だけで、小田桐先生とまったく準備も無く言葉のキャッチボールを行いながら進める。
まったく準備せずとも問題なし。
昨今「一人称記述」で認知運動療法に対する誤解が多い。
「認知問題-知覚仮説-判断」、「脳のなかの身体」、「認知過程の活性化」、「空間作業」「接触作業」「感覚モダリティ」、「特異的病理」、この基本のみは話す。

「運動」はどのようにして生まれるか、その科学的根拠をわかっていればいい。
認知運動療法は1+1の簡単な手続きではないのだから。
単なる手技でないのだから。

関西は誤解が多いが、そんなくだらない水掛け論は相手にしない。

難しいものに本質がある。
簡単な世界は疑ってかかれ。

人間は相手が難しいことを言うと蓋を被せる。
それが脳なのだ。

ただし、言葉を選ぶというメタ認知だけは働かせてほしい。

その後、4回生に手伝ってもらいながら、認知運動療法を少しでも実践している施設に実習に出る3回生10名に対して、2時間ほど行う。

あくまでも任意に。
強制ではない。
それは能動的学習ではないから。

講義以外に講義を行う親切心(困らない程度)で行った。

少し喉を使い、またもや声が出なくなる、いたいいたい。
やばいやばい、3月のライブが。
講演どころじゃないよ。
ライブ、それだけ。
オクターブ上げれないぜ~

なんとか、頼みます、神様。
このポリープを・・・お願い!

日曜の岐阜の講演は、おとなしくしゃべろう。5時間だったっけ・・・

その後、平成記念の藤田先生、奈良リハの佐藤、喜多、千葉先生が来室。
ゼミ生の中野君も入り、背損のボディイメージの研究計画を3本ほど検討する。
来週より予備実験に入る。

深い議論を重ね、シンプルなデザインに変える。
議論の深さが研究のシンプルさ(美しさ)に変わる。
期限を区切って自分を追い込むことだ。
研究とは自らの壁を越えることに意味を持つ。

さてさて、年(思春期より)とともに反比例でチョコレートが減っていたが、なんとか持ち直した。
いやいや体重と反比例か・・・

気を使ってもらいチョコレート以外のものももらったが、ありがとう。

食べきれるかどうかはわかりませんが、味はちゃんとききます。

学生諸君ありがとう。

明日こそ、少しは書き進める。

それより喉、喉、加湿し、なんとかごまかしたい。

音楽だけは奪わないで。


いやいや久しぶり

2007年02月13日 23時28分27秒 | 過去ログ

来年度の学会の採択通知&プログラム通知が来た。無事に口述になっている。久しぶりの口述ですね。しばらくポスターばかりだった。ポスターのほうが意味を持つから。今回は画像を見ていただく意図があって口述にした。

座長のほうの演題も「脳研究」たちで、いろんな議論ができるように演出できればと思っている。

さらに教育セミナー「運動制御のメカニズム」の司会/座長もありますね。今年度と同様に仕事を頂き感謝しております。

ついでに茨城の全研のプログラムも更新されていた。ある関連キーワードが想起できた。

茨城県士会に徐にサーフィンしたら、なんと・・・久しぶり!

いやいや近森時代の良き実習生(悪しきSVでごめんなさい)、そして研究の一時期の良きパートナーのY.T.君。いまやどっちが教え子かわからん・・・ 俺はそんなに年はとってないが・・・ これは同級生にもよく感じるが。

あ~早くWCPTの登録を完成させないといけない。根っからのめんどくさがりが、手続きをとめる。

 

 


心の安定

2007年02月13日 23時08分45秒 | 過去ログ
今日は昨日の代休。
本当の予定は今日原稿を少し進めるつもりだった。
しかし、朝起き、体が動かない。
むこうで音は聞こえるが、身体が動かない。
気がつけば11時。
午後にしようかと気が緩む。

久しぶりにCDを聴く。
3月に向けた選曲もかねてだ。

The Kinks、stones、Van Helen、Zeppelin、Janis、Aero、oasis、そして何年ぶりだろう。JBをかけた。追悼と思い、かけようとず~~と思ってが今日になった。
9月から年末年始をはずしてず~と週末は講演だった。
年明けで今日ははじめての休み(になった)。
Bassを取り出し弦をはりかえる。
喉が切れているのに、どういうボーカルにしようかとシャウトし、また痛める。
いつまでたっても成長せず、いつまでたっても自分を痛めつける。
休んでおけばいいのに、久しぶりの休みなんだから。

何気ない、いつもしていた普段が戻る。

ミスチルの「しるし」の歌詞を解読しながら、お互い年輪を重ねたもんだ。この歌詞がわかるにはちょうどこの年だ。

心、言葉、声、一人称、二人称、記憶、脳、そして人間。

そんなことを歌詞から考えながら、非常勤の講義資料のちかかりようを来年度に向けて整理する。

ツタヤに行き、おもむろに「海がきこえる」のDVDを借りた。
なつかしの我がふるさと、そして我が母校、「高知追手前」を見るために。
その時計台の描画、そして階段、廊下、窓、上からの池への眺め、どれをとってもロマンあふれる母校の校舎やき。
そして帯屋町、柳町、天神橋の描画や浦戸湾の眺めも最高ちや。


「普通」それは、<私>の普通、そしてそれは<私>の心の安定なんだ。
<心>の安定、それを対象者も追い求めているんだろう。
<心>の声を持つ、届ける、それが<人間らしさ>なんだと思う。


さて、このブログ(goo)の閲覧723273ブログ中の477位.
いつの間にかすごいことになっている。

いやいや恐ろしい。

選挙に出ます! なんちゃって・・・ごめんなさい。

独白するブログで申し訳ありません。
もっと学術的に行きましょうか、論文についてなど。
ま、勉強は自分でするものである。
このブログは作品的ですから。


相変わらず

2007年02月12日 22時51分00秒 | 過去ログ
相変わらず車の宣伝ソングはロックだね~

午後の紅茶が「あやや」バージョンのジャニスからスティービーになってるね。
久しぶりにTVを見ている。

ピストルズバージョンなくて、ルースターズバージョンのカモン・エブリバディでもやろうか? テキーラからの流れで。

ロックは魂だ。

その世界は人間を単純な機械には喩えない。
そのような「リハビリテーション」の時代も終わった。
それが「脳科学」が明らかにしている。

「離散運動」が「周期運動」とはならず。
難易度は抵抗重力の単純なヒエラルキーにあらず。

何をもってスタンダードとするのか?

2007年02月12日 22時11分23秒 | 過去ログ
今日は再試の監督、そして再試の口述試験。
学生はまだ肢体として物として扱っている。
一つ一つのもちかたの細部にまで気を配る。
愛護的という本当の意味を理解してほしい。
動かされるほうの気持ちになったことがあるのかという視点だ。
ADL練習をするときもそうだ(僕はしないが)。
何気ない健康側の上に非健康側の足を乗せるときもそうだ。
内転、伸展が健常者でも強くなる。

神経系とは何かをもっと極めるべきである。
剛体として扱っていることが一番気になる。
受けて側(患者役)がもっと意見を言うことだ。
同じように動かされても患者の脳の活動は違うのだ。
それは自らの脳でわかると思う。
プロとはそういうものだ。
今日はそれを自らの接触(touch)で教えることができたと思う。
再試に来てよかったと思ってもらえればそれでいい。
損だと思わないでほしい。
そのまま5時間ぐらいやりたいぐらいだった。

昼休みに朝日の人間発達学の試験問題を採点し、その後、再試の採点を行う。
メールの返事に2時間ぐらいかかり、大学院の仕事を行う。

今日は休みなのに何をしているんだろう。

グラミーだったね。

明日にも見よう。

何のために勉強してるんだ。
自己と他者、そのバランスだ。

先日のコースでピカソのキュビズムがメタファーで使われたが、

ダヴィンチからドラクロワまで続く「奥行き知覚」物理主義は、マネ、モネ、ルノワールらの印象派で壊される。さらに後期印象派では二次元と三次元空間が輪郭で操作された。
当時、印象派に対する批評はひどいものであったが、今ではそれが逆転だ。
自分の目(脳で感じる)印象を描く、その一人称が時代を変えた。
その後、ピカソらのキュビズムは「観察者の視点」だ。
私の目、あなたの眼、そして彼女の目、など、3者から見た絵が同時に描かれている。見方を変えれば顔は変わる。
その後、脳(観念)の問題をパロディったのが、ダリらのシュール レアリズムである。僕はマグリットに興味を持つ。

自分の研究室はマチス、モネ、クリムト、そしてミュシャに大いに囲まれているが。

芸術もしかり、科学もしかり、そしてその時々の臨床も。
国家試験という教育にルールはあるが、そのあとのスタンダードにルールはない。
秩序的なスタンダード、それは人間を対象にしているということだ。
医療のスタンダードは、ひとを対象にする、それだけだ。
「コンビニ」が「スーパー」に取って代わる、「お茶」が一番売れる、なんてのは当時のスタンダードにはなかった。

しかし、国家試験という呪縛もつらい。
教員をしていて一番つらいのは今の科学では・・・なものを、あたかもマニュアルとして教えないといけないという点だ。臨床実習しかり。それをするから世の中甘いのも事実。自分の心を踏みつける瞬間に幾度となく遭遇する。

自分がスタンダードになればいい。
そこまで、科学的にも技術的にもそして人間的にも自信を持てるために、日々精進を重ねるだけだ。

外科医は「空けてみないとわからない」、それはジャズピアニストのセッションにも似ている。やってみないとわからない。しかし、それは無秩序じゃない学習だ。
赤ちゃんのキッキングにも似ている。

臨床家(教育者)は他人がどうのこうの関係ない。自らがその現在進行形でディシジョンメーキングできるかだ。そこまで追い込まれないといけない。有名な学者ではなく、その理論がどうかを吟味する必要がある。リゾラッティがどうかでなく、デシティがどうかでなく、ラマチャンドランかどうかでなく、彼らの昔の理論、そして今の理論がどうかである。
ラマチャンドランの自閉症に対する接近の理論なんか、僕からみておかしすぎる。伊藤正男さんの長期抑圧理論のような美しさかつ繊細さはない。



クリエイティブな仕事をする、そういう人は他人の意見にさらさせる。
小さくまとまらず、50年先を想像する、そして創造する。
俺は大きく行くつもりだ。
それができないやつは小さくコツコツとすればいい。
システムなんだから。
ただし、50年先もその理論、技術は目が出ないかもしれない。

世の中を席巻するということはそういうことであり、長生きすることでない。

大久保利通のような人生は<僕は>あじあうつもりはない。




超える、超えない?

2007年02月12日 08時24分08秒 | 過去ログ
一昨日は1講義をした。脳のなかの身体を治療するというテーマだったが、これがひどい講義だった。いや~久しぶりに空回り状態だった。あまりにも前後の講義を意識しすぎたばかりに力が入りすぎた感がある。これには精神的緊張も起ったのではないかとも思える。ほんまに難しい、相手に対して言葉を使うということは。言葉を選ぶということは大事だ。

おかげで、喉の左奥が切れたような感じになり、声を出すのもつらいし、つばをのみこむのもつらい。20日あたりの神経部会のあとにもなった。ちょっとロードが続き、しゃべり続けた病気なんだろう。3月のライブが怖い。

夜、めずらしく懇親会に出たくないという気持ちがわく。立場上行く。それが人間関係だから。が、結局は気を使われる。仇となる場合もある。11時に戻った。早いホテルへのお帰り。

翌日の講習会を聞きたかったのも事実だが、仕事のため、富士山を背を向けながら帰る。

今日は富士山がきれいだと思い、一路、奈良へ。
奈良県理学療法士会の新人研修会「世界の理学療法」

WCPTのこと、国際貢献のこと、欧州の理学療法のこと、UK、北欧、フランス、イタリアなどなどの理学療法について写真を交えて話をした。
旅行にいった気分になってもらおうと難しいことは言わず、興味だけもってもらえばいいと思った。

しかし、1名だけ、最初から最後まで内職を続けていたものがいた。
授業ならもちろん雷だが、他の人に対する文脈、精神的緊張を起こす、などからやめた。
内職がいけないというのでなく・・・していながらも、何度が顔を上げ、少しは他人、あるいは文脈にあわせるという人間らしさがないことに問題がある。

つまり、講師-受講者の関係性をある1名が乱すという行為なんだ。
相手に対する意見(乱す)でなく、自分-他者の関係性に土足で踏み込む行為は、許されない。これはSVにもよく起こる。

ある関係性に入るという行為は慎重にならなければならない。
それは見えないから。
不倫でもつれる、あるいは、先日起った兄弟での凶悪な事件に対する両親の意見もそうだ。

そうした行為は、その文脈で超える、超えないの自己が大きく関与する。
「賭けマージャン(ほんとは悪い)」はよいが、ある一線を越えた「賭けマージャン」はやってはいけない。それが破滅、細胞分裂による悪玉流入になるから。研究会も更新ということを意識するばかりに、解体が起るかもしれない。それはよいこと、シンポだという人もいると思うが、癌化する恐れもある。研究会や学会を白紙にするというのも必要かもしれないし、休息することも必要なのかもしれない。恐竜になるか、aero smithになるかだ・・・

これは、ソマティックマーカーとか言うが、単純なものだと思う。経験による「何か」が学習されたのだと思うが、心と運動は似ている。
ニューロエコノミクスをパラドックスとして捉えたらそうなのかもしれない。

一方、科学が進行するにつれ、ニューロエシックスという倫理についても語られてきた。超える、超えないを考えたときに重要だと思う。誰も関係性なんか見えないから。本人同士しかわらないから。

自分には越境することが学習かもしれないが、人と人(歴史)についてはある一線を越えてはならない。おろかな戦争になるだけだ。そういう思考を持っていた自分が若いときにはあった。現職者講習会に来ていたみなさんは若いので興味が沸いた人がやはり多い(柔軟な脳をお持ちだから)と思うが、「どのように」これから解決していくかは、自分の思考を押し通してもよくない。みんなもがき続けているのはそこだと思う。ま~うまくやらないといけない。それしかいえない。人間は受けて側が「どう捉えるか」だから。

偶然は準備のできていないものを助けてくれない。
臨床や研究だけでなく、人間関係も、そう思う。
偶然とは「余裕」を含む。

さて、つらいが今日も仕事。
9月からず~と働き尽くめであるが、25日が待ち遠しい。