森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

生々流転

2008年04月30日 00時46分18秒 | 過去ログ
日曜はユマニテク医療専門学校同窓会で講演。
主に3つのパートで進めた。
150名ほどの聴衆者のそれぞれに近接領域があるが、
注意の持続時間である20分間をめどに、
意識の操作を行った。
それを意識していたせいか、5分ほどオーバーして終わってしまった。
時間配分の調整が、
他の意識によって修飾され、
少々、エラーが生じた。
プロとして反省すべきである。

目が輝く人たちもいたようだ。
少し相互作用にうれしさを感じ、
やはり、「快」という感覚が人間を作ると思った。

同窓会長の森本先生の人柄に感謝。
昨今、作られた研修会が多い中、
自分の言葉で伝えようと努力がみられた。
社交辞令が多いなか、その素直さを感じ、
20歳半ばの自分を省みた。

現在は人前で話すことの苦手さを克服した自分に出会えている。

懇親会に参加し、熱い思いで研究をしようと思っている人たちに出あった。
どう具現し、世の中のパラダイムに貢献できるか、勝負である。

しかしながら、学校運営が大変な世の中になっている。
どこも苦労している。
どうなることやら・・・10年後の自分はまだ見えない。
しかし、その不安要素が自分を強くする。

帰りは院生の藤田君に送ってもらい、
今年度最初の講演スケジュールが終了した。
12月までの週末塞がり。
なんとかなるか。

月曜日はいつもの時間に戻り、
授業準備、院生の研究指導、院生の論文の手直し、などなどをして、
会議3連発。

教育改革、学術振興、などなどの委員会をはしごして、意見を述べ、
ブレインストーミングとなるように(願)。

本日は、客人を向かえ、
そして、学生にロングメールをうち、授業3連発。
休みというのに、大学は授業なのだ。
火曜日の授業日が少ないために本日は授業。

GWスタートというが、仕事をすると、
そんな風の意識はなくなる。

この代休が5月1日だが、
その日は福岡に実習地訪問なのだ。

授業をしながら、自分はつくづく、
ノートを作らない人だと思い、
どうもその時々から生まれることば(突然生まれる;創発的な)を楽しんでいるんだと思った。
時に支離滅裂になるが、それも自分。
それに出会える(出会う)ことがとても楽しい。
あまり、バランスを意識していないのかな。
揺らぎを大切にしている、だから、毎回、こころの準備(シミュレーション)しないといけない。
ライブ前の緊張感といったところか。
だから、1回生などの高校上がりの者は、
何を言っているのか、さっぱりなのかもしれない。
3回生となると、よく聴いてくれている
今日は、USNの注意障害説、表象障害説、病態否認説、を述べ、
それに基づく(その理論を背景とした)治療介入を説明した。
所詮、仮説にすぎない。
すべての治療介入を批判的吟味する。
プリズムだろうが、cueingだろうか、麻痺肢運動だろうが、認知運動療法だろうが、
さまざまな角度から、追求すれば、すべて批判的吟味できる。
どこかには、そうとはいえない科学的成果があるし、
それを自己の解釈学に落とし込んでみると、
これは説明できるが、これは説明できないと、わかる。
それが仮説となり、実証作業がはじまる。

誰が言おうが、アメリカだろうが、イタリアだろうが、イギリスだろうが、
そんなことは関係ない。
他者脳(科学論文)と自己脳(自己の記憶;経験に基づく解釈)とコラボさせながら、
それに吟味を加える。
誰かが言っているだの、イタリアではだの、この世の中は責任転嫁が蔓延している。
自己脳で他者脳に根拠立てて説明する。
それを忘れてしまえば、科学的根拠に基づく治療ではない。
カール・ポパーも泣いてしまう。

そんなことを、USNの講義をしながら、
そして、その後の院生の認知神経科学学会の抄録をみながら思った。

富永先生との議論もその病態に対してであり、
授業3コマの疲労で脳の回転は遅かったが、
いろんな議論・仮説が浮かび、
説明できるもの、そして、その限界についてお互いに話せた。

ついでに、研究会の査読関係の仕事を手伝ってもらった。
感謝します。

22時に帰り、遅い食事をとった。
この不規則な食事が、自らをメタボに進める。
また、毎週の講演の懇親会による暴飲暴食が、
肝臓、腎臓を痛めつけているようだ。
検査値が少し変わりつつある。

そろそろ、調整しよう。

少し休憩し、先ほど、科研費の20年度の補助金交付申請書を書き終えた。
本年度も国から補助していただき、きちんと研究して、
成果を出し、公表し、社会貢献していかねばならない。
それが研究者の仕事である。

明日は、松下電工からお客様を迎え、間髪いれずに授業をして、
そして、電車に飛び乗り、実習地訪問に向かう。

高知の城下が呼んでいる。

生命の可能性を支えるロマンティック

2008年04月27日 08時59分07秒 | 過去ログ


金曜日、岡山駅で、「こだま」を撮影。
久しぶりに「こだま」にのる。
いや、正式には0系にのる。
もうすぐこの山陽新幹線でも0系がなくなるらしい。
こだまには500系が採用されるようで、
500系のロングノーズの様が「こだま」と定着するのは、
脳がしばらく違和感を感じるだろう。
500系は、どちらかといえば、700系より、
のぞみ、という名が似合う。

岡山では、教育学において、
「臨床実習」における
1.コミュニケーション能力
2.知識・技術
3.問題解決

といった視点から、
「表情」「フィードバック学習」「フィードフォワード学習」に視点を絞り、上の3つを高める意味を話した。

岡山より三重に入る前に、
JR福知山線事故から3年というTVを見た。
尼崎のカーブ前の警笛は、
なんともいえない心情に出くわした。
「つらい」とかそういう言葉にできない、何かである。

この世に生を得て、生きる(死ぬ)ということの意味を考えた。


三重・四日市につき、
主催してくれている「ユマニテク医療専門学校」の同窓会の先生方と懇親する。


明けて、本日、本年度最初の講演を行う。


身体には鉛がのっているようだが、

それを軽快なトークへ変えたいものだ。

重さというこの感覚は、
身体をもった人間の脳だから感じることができる。

light, heavy, popなどなど、の言語と身体性を考える次第である。




日本人の身体

2008年04月23日 07時15分42秒 | 過去ログ
土日は大学院の研究中間発表。
M1とM2の顔みせ懇親会をかねてなので、
宿泊(合宿)形式であった。
遠隔地の院生もいるので、
このような宿泊形式になる。

朝までやったらしいが、
いい意見交換をして、
ブレークスルーしてください。






写真は日曜の風景。
M212人中、10人の発表があった。
半分ぐらいは終わりつつあるかな。
投稿論文を2~3本は作りましょう。

夜の懇親会。
僕は早々に退散した。
年々、長くいることに「苦」を感じ始めた。
今の精神状態をも反映している行動なのかもしれない。

いろんな新しい(今まで経験したことのない)行動を求められると、
旧来の自動化された行動を制御してしまうことがあり、
今度はその自動化された普段の行動に問題が生じる。
新たなものを生み出すときはある程度の犠牲がいるが、
逆に運動を考えた場合、
もっとシンプルなものが存在しているのではないかと思い始めてきている。

欧米人と日本人、その感性違うはずだ。
したがって、ヒトの運動制御を考えたとき、
もっとシンプルな認知機構ではないかと思ってき始めている。
それを修飾する意味で、大脳皮質の最高次なものが働くのではないかと・・

証明していかないといけない。
実証されていない仮説をず~ともっともらしく述べるのはもう飽きた。
その仮説の限界にもきちんと触れないといけない。
最近、切にそれを感じる。
自らの研究で言える範囲を相当に意識する。
それが謙虚な態度である。

メソドロジーの研究にどっぷりつかると、
それが見えなくなる場合がある。

さて、いろんなことにチャレンジしたいが、
時間に追われる。

つまり、私自身がそういう物理的なものに操作されている可能性があるため、
自由を感じていない。

時間に押されると、「豊か」「美しさ」の喪失がある場合がある。
つまり心理的時間よりも物理的時間が自らの脳のなかで打ち勝っていると、
それは機械に支配されている感がある。
内なる機械か、外なる機械か、
それもまた心身論になってしまう。


火曜日は2回目の授業3連発。
これがあと10数回続くと思うと、途方がくれる。
1~2~3年の連続は面白いが、
エネルギーが注がれる。
実習授業でなく、講義授業での
3連発、そして、自らの話に注目させるこの意識(注意)の操作は、
それはそれはエネルギーがいる。
1年が70名、2年が60名、3年が90名、
2年の授業が楽を感じる。

それは、「顔」の表情が周辺視野で認知できるからだ。
90名ともなれば、それにブレが生じる。

これも技能、なんとかしたいものだ。


1ランク上の「快」を求めて

2008年04月19日 08時10分48秒 | 過去ログ
風邪症状というべきか、感冒様症状というべきか、
もう1週間以上続いている。
にあわせて、学内講義がタイトに入っており、
2週目に入ったこの段階で、
疲労が出てきた。
年々、時間がたってから、それが起こる。

よくこの業界の先輩方に、
自己の経験から、助言をいただくが、
その状況がわかるような年になった。
「健康」とは「人間」にとって、
目に見えないかげがえのないもの、
数値目標というが、
からだのサインはその前から発している。
それを自然に感じ、
無理をしない世の中が、「やさしい」「ゆたかな」世の中だ。
今は時間(スピード)がもとめられ、
「できる」視点が重視され、
自分自身を「感じ」「わかる」プロセスがあまりにも短い。


水曜日は、教育学部、人間環境デザイン学科の学生たちに「感覚の発達」、
そして、赤ちゃんの感覚が研ぎ澄まされている事実を、
「発達脳科学」で語った。
選択科目なので、少しずつ、噂、評判などで、聴講者が増えている。
うれしい限りだ。

その後、大学院の講義を21時過ぎまで行う。
ネット授業だから、いわゆる対面講義形式にならざるをえず、
ディスカスできず、さらには、一方的に「しゃべり続け」は
講義を夜に行うのと同じで、からだに「こたえる」。
昨年は「緊張感」から、そのようなことは感じなかったが、
今年はそれを感じる。
このまま、ズルズルといけば、「マンネリ」となるのだろう。
「マンネリが最大の敵」

木曜は、大学院の必修授業である「美しく生きるための健康科学総合特論」
で「扁桃体」「側坐核」「腹側被蓋野」の働きを話し、
生きるため、そして研究をするための「情動」の重要性を話した。
「快」「不快」のはざまで生まれる「快」という情動。
大人の脳はそうなんだろう。
最終的に二年後に論文が認められたときの「快」感覚のために、
今は、1ランク上での仕事を求め、進んでもらいたい。
1ランク上であると、完了の時には「快」が生まれるはずだ。

その日は、星城大学より越智先生が来ており、
研究の話などをしたのちに、金子学部長と懇親する。
金子学部長は畿央大学着任前は、星城大学であった。
証明していく真摯な態度にあらためて、その態度に感動した。
「マンネリ」の打破を学部長もいわれた。
70歳まえだが、いまだに世界に論文を発信し、
自らが提唱した仮説の検証に時間を惜しんでいない。

提唱すれば、証明していく。
それが研究的態度である。
花火だけ打ち上げてもよくない。

その後、福本先生、前岡先生が来て、
午前様となった。
風邪のせいか、飲酒が進まない。
無理は厳禁と思い、あまり飲まずにいた。

昨日はいつもの岡山。
この新幹線も4年目か、と思い、
回想した。
少し気持ちの余裕を感じた。

教育学の授業では、
「普遍性」をキーワードにリハビリテーション学の教育形態の意味性を考えた。
「普遍的であるもの」「そうでないもの」、そうでないものが圧倒的に多いが、
「そうでないもの」について「ブレインストーミング」する意味について考えた。

一人で学習するもの、他人と学習するもの(批判的吟味)と区別して、
まずは勉強すべきだ。
なんでも討論しなくてもよい。
人に聞かずとも、書物をよめばすむ、普遍的(名称)なものは、
それで済ませばよい。

しかし、仮説の段階(治療など)は、
議論を重ね、その証明作業をともにすべきだ。
それが「生涯教育」となる。

そんなことを、「脳科学」もふまえて、「教育学」として語った。

あけて今日、今から、大学に戻り、
大学院生たちの中間発表を聞く。
今日はM1とM2の懇親も踏まえて合宿となる。

今日・明日しか空いておらず、みごとにそのスケジュールにおさまった・・・

もう日と踏ん張りしましょう。





とりあえず今年の講演スケジュール

2008年04月16日 12時58分18秒 | 過去ログ
4/27 ユマニテク医療専門学校同窓会 講演(三重県)
5/16 日本理学療法学術大会 講演(福岡県)
5/25 大阪リハビリテーション専門学校同窓会 講演
5/28 群馬大学大学院医学系研究科 特別講義
6/7-8 synergy研究会 講演(福岡県)
6/14-15 倉敷平成病院 講演(岡山県)
6/28-29 福井県理学療法士会 講演
7/26-27 沖縄リハビリテーション福祉学院同窓会 講演
8/2 (財)脳神経疾患研究所附属総合南東北病院 講演(福島県)
9/7 兵庫県作業療法学会 講演
9/13-15 日本認知運動療法研究会ベーシックコース 講演(島根県)
10/4 日本作業療法研究学会 講演(神奈川県)
10/11-13 日本認知運動療法研究会ベーシックコース 講演(兵庫県)
10/18 健康科学研究所シンポジウム(奈良県)
10/25-26 鹿児島県理学療法士会 講演
11/8-9 山口県理学療法士会 講演
11/30 兵庫県理学療法士会尼崎ブロック 講演
12/6-7 日本理学療法士協会神経系理学療法研究部会 講演(大阪府)

それ以外は、学会発表、座長、司会などなど、です。



ハーモニー(奏)

2008年04月15日 18時12分27秒 | 過去ログ
今日から火曜日は13:00から「リハ概論」、
14:40から「発達系理学療法学」、
16:10から「神経系理学療法学」、
の3連続授業。
さきほど終わった。

一回生、二回生、三回生と流れる。

単純なヒエラルキーではないが、
ある程度、ヒエラルキーは存在し、
それは、対象が関係性を結ぶこと(あるいは干渉する場合もある)で
非線形的に発達したり、入れ子になったり、
位相が生じたり、多種多様に変化していく。

やはり、一回より、二回、二回より三回で
講義における相互作用度合が違う。

これはお互いの目標を共有しているのもある。
明確な目標ができ、
それに向かい、共同注意する機構が働いているのもある。

一方、一回は、授業や大学にまだ予測(仮説)が生まれず(記憶がないから)、
逆に、予測不能な状態から、
過敏な警戒状態を作り、
逆に、脅威に対して過剰に反応する。

不安感情を司る帯状回が大脳皮質よりも大いに働くのだ。
だから、結果的に「不快」と判断、
あるいは、「傾眠」状態になる。

それを見た教師は、「不快」になり、
逆に「情動」が大いに喚起され、
「恐怖」を与えてしまう。

そうすると慣れない環境でただでさえ、
「精神的」緊張が、身体化され、筋緊張(筋張力)をあげてしまっているのに、
「恐怖」によってさらに、その張力をあげてしまい、
結果として「疲労」を与え、
疲れやすい(注意を持続できない)脳と身体を作ってしまう。

今日もこの1年から3年への流れの中でそれを感じ、
1年の授業を反省した。

単に、1年が高校感覚というだけの問題でなく、
脳のそういった機構によるものであり、
教師次第では、なんとでもなる。

ライブ感覚、あるいは落語感覚と、人を引き付ける人、
それが教師の力量だが、
それだけでは不十分かもしれない。
いや人を引き付けなくとも、学生と教師が最終的には「ハーモニー」
を奏でることができれば、それでいいと思う。
教え方がうまいことにこしたことはないが、
それよりも、「ハーモニー」として「インタラクション」するかが、
その学生の将来を思えばよいのかもしれない。
めぐりあったすべてのものからおくられるサイン。
何一つ見逃さない、そうやってくらしていこう。
とミスチルが言っているが、それも一理あるし、
渡辺淳一の「鈍感力」も一理ある。
見逃すことで「ストレス」でない場合もある。
一長一短このファジーな「人間」が実に面白い。


さて、実習生諸君。
スポーツ選手でMental、physicalというが、
自らの体験から、
Mentalがいかにphysicalに影響するかをからだで記憶しておいてもらいたい。

「心身状態」とよくいうが、
障害を持つ患者とはphysicalだけの問題でない。
Physical therapist、身体の治療者だが、
その両義性(不可分)を自分自身で感じ、
よきセラピストへ成長してほしい。

みんな、あせっているよ。

まだ1週間、はじまったばかりだ。

何もできなくて当然、何もわからなくて当然。
「人生」とはそういうもの。
もしすべてができれば、「実習」なんていらない。
そして、physical therapyはレシピ通りのtherapyとなる。

まずは何も知らん自分を・・・
それを感じることがスタートだ。
今始まったばかりに自信なんかいらない。
信頼を謙虚さから勝ち取ることだ。
「人間」を治療する「人間」は
「人間」に教育を受けることから「成長」できる。

大いに悩み、大いに泣き、喜怒哀楽を出すこと。
2年もすれば、よき「経験」として昔話で話すことができるよ。


さて、37度台の脳と身体には今日の三コマはきいた。

37度代の風邪がなんとなくいちばんきつい。
「無理」がきく「体温」だと潜在的に思っているから、
「無理」するのだろう。
38度を超えれば、「無理」をやめる。
そう「身体」がサインをあたえているのだと思う。

知らないうちに「免疫力」を落としているのかもしれない。

まじめをやめれば病気にならないっていう本がでるぐらい
「日本」は今ストレス社会なのか???

まじめ、それは大事だが、さきほどのファジーな感が生きていくとき大切なんだろう。

「生きる力」と小学校教育で叫んでいるが、
そのもの自体が叫ばれるこの時勢。
時代が変貌する。
それも地球上における「時代」なんだろう。



「知る」こと、それは「はじまる」こと。



循環システム

2008年04月12日 09時29分08秒 | 過去ログ
風邪をひいて、のどがやられ、講義に悩む。
授業が始まり、特にそれを感じる。
「春風」ならぬ「春風邪」

昨日より、岡山での講義がスタートする。
昼間、夜間とそれぞれ1コマずつ、
「教育学」について講義を持つ。

導入部分において、
リハビリテーションと教育の関係性について話した。
これからの「こころ」の持ち様が多かったが。。。


「人生」とはなんだろうか?

保健医療業界も一筋縄にいかないこのご時勢。
日本は、競争という枠組みのなかで、
「豊かさ」を失うのではないかと危惧する。

一方、少子化の波で、どこの学校も大変だ。
教育というものが、競争一辺倒の至上主義になるのは、
少々息苦しい。
全入時代。
それはそれで受け入れないといけないのだと思う。


競争は大事だが、日本人のこころにあった形で進めるべきだと思う。


文化や思想が違えば、手段も変わる。

昨日、NHKでイタリアのチンクエテッレ(今日の世界ふしぎ発見でもやるらしい)をみたが、
歴史(時代)を大切にしたいものである。
そのうち、ポルトヴェネレには11年前、
パリで知り合った友人の紹介で、留学中に旅したが、
そのほかの4つの村にもいつか船で上陸したいものである。

ポルトヴェネレへは列車でなく、バスでしか乗り込めないが、
帰りのバスで居眠りをし、
駅らしきものを通り過ぎたとき、
いっせいにバスの乗客のおばさまたちに、
あなた降りなさい!とボディランゲージで言われたときが懐かしい。
人のやさしさはあたたかい。
はかれるものではない。



もっと「ゆっくり」と大地を踏みしめたいものだ。


時のながれに身を任せるというが、
時の流れが速すぎると、
自分の身体を見失ってしまう。


速さを協調する時代はいつまで続くのだろう。

競争原理は大事だが、
人としての協調性(コミュニケーション)を失ってはならぬ。



こころの窓

2008年04月10日 23時01分15秒 | 過去ログ
昨日から大学院の授業がスタート。
神経リハビリテーション特論がはじまった。
大学院に通うもの、ネット上から授業をきいているもの。
いろんな手段があるが、
結局は自分次第。

どのように持続し、そして、step upするかだ。
baby stepでもいいので、毎日stepしている自分を感じることだ。

久しぶりの21時までの授業であり、
一気に喉がやられる。

今日は会議後、同じく大学院の授業。
「美しく生きる~」とは何か?
みなさんの「眼」に現れている。
目は口ほどにものをいう。

いろんな、しぐさ、時計を見るなど、
から、こころの状態が読み取れる。

「大人の階段」のぼる~ のぼってもらいたい。

自分のしたいこと(研究)だけがすべてじゃない。
今日は「必修」科目だったので、
他の領域の院生も入っていたので、
それを感じた。

若いものほど、それを感じた。
「prefrontal cortex」の成長を
社会人になっても起こさないといけない。

自己を分析し、自己を反省する。

研究もその繰り返しだし、
人生もその繰り返し。

「目を踊らせる」「目を伏せる」「目の色をかえる」「目が覚める」…。
これらの目に関係する言葉は、全て自己の感情・精神状態を示している
眼球運動や行動分析の認知構造から、脳の活動が予測できる。

脳を研究すると、学科(自分の職業)などの既存の枠にとらわれない、
広範な知識が必要なのだ。

だから、狭い範囲で研究をしようとしている人たちの、
自分を肯定するこころが、即座に読み取ることができる。

人間というものは、実に面白いし、
自分が大好きだ。

非言語的コミュニケーションに長けると、
ストレスになる。

自らの人生に影響を受けない(されていない)「他者を尊重する」
一番難しい人間の脳の機能かもしれない。

もはや「悟り」の境地である。
「意識活動」を研究しているものが、
その世界感に向かうのはわかる。

「宗教」を超えた「宗教」
それが「仏教」なのかもしれない。



「神経リハビリテーション研究室」に在籍していないM1の院生にも
ブレークスルーとなる研究成果を期待するよ。


批判を恐れず、未来を創造する。


「安定」「いばらの道」、その人生選択は、
いつも人間にとって難しい。


院生の授業後、奈良リハセンターの面々が、
PT、OT学会の準備に来た。


この仲間に囲まれていると、
率直に楽しい。