今日は神経系理学療法学の最終講義を行い、学生を実習に送り出す、その心得?(私なり)について話した。普遍的な知識、普遍的でない想像、そのコラボレーションが臨床である。
午後は会議、もめにもめた。これも意識経験、思考の循環過程である。教育もそうなのだが、あくまでも結果・行動主義が蔓延する。世の中の評価は過程重視になっているが、しかし・・・ 医学に住み着くとき、どうしても結果というのも求められるのも事実だ。その両者をいききするのがいいのか、決別するのがいいのか・・・ リハビリテーションの理念と医学的リハビリテーションの求められ方が少し矛盾している。
18時より略称SAPSの講義に入る。「学生生活のススメ~経験と脳科学から~」といううテーマをいただき、「思考」「記憶」「感情」「感覚」「意識」についてお話した。学生からの質問で、「禅」の脳活動、そして無意識とは、という意見をいただき、それについて自らの考えが突然生まれるままに話した。
そもそも、佛教とは「煩悩」を排除する。その過程は、自らの「脳」で生み出される「内部表象」を一旦排除するという過程だ。平易にいれば、いらないことを考えないということだ。人間は大脳皮質が発達し、さまざまな想像をすることが可能だが、その想像はあくまでも小さい。一旦、リセットすることで、実は身体のすばらしさ、生きている身体の神秘さ、喜びをわからす手段なのかもしれない。すなわち、「意識」を一旦、排除し、そして、「身体」から湧き出す「感覚」のすばらしさ、私の「感覚」が作動する喜びを感じさせる、すなわち、それを意識化される過程なのかもしれない。おいしいものを食べて、心から喜ぶ、歌を聴いて心から感動する、本を読んで心底歓喜する。こうした一見単純と思われる日々のすばらしさ、人間のすばらしさを感じさせる、その手続きなのかもしれない。「概念」排除し、「感覚」を取る。私の「感覚」を「意識」する。その喜びだ。五体満足の幸せ、ご飯の甘さ、子供のかわいさ、それだ。人工的なものでない、喜びだ。それを感じることができない現代社会。セミの鳴き声が変わったことに気づかず、季節を感じられない現代社会。そうした人工的な社会が、人間を人工にしてしまい、操作できない自然(人間)を操作しようとし、耳をふさぎたくなるような凶悪な犯罪が起る現代社会、その歪が出ている。
アジアに宗教戦争が起らないのは、この思想があるのかもしれない。
一方、西洋に宗教戦争があるのは、「神」に対する「意識」を、他の「神」に対する「意識」への植え付けであるように感じる。どうして私(われわれ)の志向性をわかってくえないのか!というものである。なかなか解決の糸口が見つからないのはその影響が大きい。
ロシアバレエのインストと話す機会を得た。「指先の筋」ひとつひとつを「思考」し、「意識」し、その感覚を受け入れ、そして私のものとする。そして、それを制御する。そうした身体論が芸術なんだ。一方、そのあたりの(失礼)バレエスクールのインストは、とにかく、子供に体をこう動かしてとか、見た目だけを操作しようとする。ここにも「わかる」と「できる」の違いがある。言ってはわるいけど、その両者のスクールの子供たちの真剣なまなざし前者のほうが輝いていた。「わかる」っていいことだ。目の輝きまで変える。「こうして」「ああして」と三人称でなく、その一人称な感じを感じさせるように演技し、模倣させ、そして私にしかない感覚を生み出すようにする。それがプロだ。アスリートたちは指先一つ一つのある局面での感覚を意識することができるし、それを制御、操作することができる。その多様性を持つためにレッスン、トレーニングがあるのだ。ミュージシャンしかり、そのときどきのアドリブを秩序だった、すなわち認知的に行う。
「現状」に「満足」してはならない。
「不安」の海に漕ぎ出す「勇気」それを持っているのがプロだ。
さて、今から寝て、5時に起き、講義の準備を1時間し、岡山に向かいます。
明日は6時間講義、そして、明後日は神経系理学療法研究部会学術集会の打ち合わせ、そして明々後日はその学会のシンポジストをしてきます。
好き勝手なことをリアルに、そして、現在進行形の私の意識に素直にしゃべられせていだければと思う。準備は一切しないつもりである。それがシンポジウムだ。
そして、2月3日は理学療法基礎系研究部会全国研修会ですね。