森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

挑戦  ~知ることは感じることでしかできない

2007年08月31日 09時15分05秒 | 過去ログ
昨日から神経系理学療法学演習

今年は認知神経リハビリテーションオンリーで行う。
昨日は宮本先生に来てもらい、午前中の3時間は、身体を介して世界に意味を与えることの意味、なぜ、認知過程、認知問題なのかについて話された。
いつもながら、スライドなし、資料なし、だが聴衆者(学生は素直なので、興味がなければ、聞かない)をひきつける能力はすごい。
じぶんよがりになっていない、ライブを展開する。
過剰な情報を与えない。
スライド(字が多い)ばかりの講義は、ひとりよがりである。
スライドは画像など適材適所で配置するべきである。
結局は、スライドに頼らざるを得ないのは、自らの脳がまだ未熟なのである。

午後は3コマ(4.5時間)実技。
コースでもこれだけの実技はとることができない。
綿密で繊細な身体に気づいてもらえればと思う。
セラピストの思考の複雑さが対象者の脳の複雑さに対応、共鳴する。
患者が治らないのは自分の治療(問題)に責任があるのだ。
でないと未来はない。
いつまでも、患者の病態に原因帰属できない。
セラピストが回復、再生をあきらめたら、患者はどうなるのだろう。

いずれにしても、上肢機能と歩行機能のための身体とはに気づけた人間が10名ぐらいいればいい。
自分に負けて、単純な思考に基づく歩行練習を繰り返す者もいるだろう。
それが社会システムだから。
質のわからない人間は、この思考がなかなかできない。

しかし、いつになく、実技が丁寧だった。
コースではないことである。


いずれにしても、感じる脳の大切さに気づいてもらえればと思う。

感知ということばはあっても、運知(うんち)や動知はない。
知ることは感じることでしかできない。
学習には感じることが大切だが、現状のリハビリを考えてみると、出す、出力することに終始していると思う。

それでは脳がかわいそうだ。
脳にも情報を、そして、その情報を捉える練習を、統合された瞬間、脳はうれしいはずだ。
一致した瞬間、それが気づきになる。

セラピストに、もっとこっちに出しなさい! なんていわれても脳は楽しくない。
なぜなら、もっとが、わからないし、こっちが、わからないからだ。
体で感じ、予測ができていないからだ(知覚仮説)。
視覚にだまされているからだ。

片麻痺の人たちは視覚世界と体性感覚世界がいつも違うので、相当にストレスだ。
われわれがいつも行為が無意識なのは、その世界がいつも一致しているからだ。
予測と外れることは、感覚世界の不一致なんだ。
それが、情報となり、気づきとなる。
差異を生み出す差異が認知問題であることにも気づいてもらえるだろう。

見ている世界と感じている世界が違う。
そんなところで障害者は生きている。

いずれにしても、歩行介助として無理やり骨盤を押して、患者を歩かせてた時代が自分にもあったが、現代科学がそれを否定してくれている。

それに学生たちも気づいてもらいたい。

卒業後30年、同じ思考で同じ治療をし、同じ教育をしている自分の未来像に明るさ、楽しさ、華やかさはない。

そこには、自分の魂はない。

時代に流されるぬけがらのようなものだ。


19時より奈良県リハビリテーションセンターで、奈良県認知運動療法勉強会に参加。
久し振りに参加した。
みんないろんな方向があるが、もう一度原点に立ち戻って、認知問題、知覚仮説を徹底させてほしい。

一人称記述は患者の脳を知るための枝であり、幹は自らの評価に基づく認知問題なんだから。

そこを間違えば、すべてが間違う。

観察(見る、触る、聴く)に基づく病態仮説、そして認知問題の吟味の討議をしてもらいたい。

行為・運動から外れてはいけない。

すっかり回想録

2007年08月29日 07時10分32秒 | 過去ログ
先週半ばに熊本より高知に帰り(向かい)、高校の同窓会お疲れ様同窓会に出席し、そのままベーシックコースへ。

初日は「脳科学とリハビリテーション」を話した。
いらない情報は与えず、必要最低限に絞ったのが功を奏した。
それよりも、スライドを使わず、カーテンを開け、青い壮大な太平洋をバックに講義をしたことがいいんだろう。
明るい気持ちで学習することが一番いい。
カーテンを開ければ、龍馬も眺める太平洋。

学習は驚きからはじまる。


そのどこまでも続く地平線を見れば、勉強する意欲もわく。
講習会に来ても、知識や技術は断片的でしかない。
それを結び合わせるのが感情である。
そして、いつまでも勉強し続けようという気持ちにさせる前向き感情である。
後ろ向き感情でない。

感情はエピソード記憶として長期記憶となる。
むしろ、初回のコースは意味より感情の記憶が残ったほうがいい。
1回の受講だけで、何もわかっていない。

人生すべて勉強である。
認知を生きるということはそういうことである。

患者も認知を生きているが、自分自身も天寿に全うされるまで認知を生きている。

いずれにしても、休みボケでない、パーフェクトに近い講義ができた。

2日目は実習などのサポートに入る。
体で感じ、記憶する。
頭でっかちにならない手続きにもいい。
自らの脳で手続き記憶が生まれる。

臨床を生きるための必須の事項だ。

レセプションに。
その前に時間があったので、追手筋の「ひょっとこ寿司」へ。
小中学校の同級生が握っていた。
彼の記憶がすごい。
僕は、それが徐々に、波紋が広がるように、よみがえってきた。
面白いものだ。
脳が必死に結び合わせているのだろう。
この必死さ、ニューロンが手を伸ばして、手を握り合わせている瞬間、なんとも脳は愛おしい。

小中学校の同級生は、複雑で、社会として壮大だと、違う意味で感じた。

人生はどうなるかわからない。
自分が今こうしているのも、そのつどのシステムの位相があったのだろう。
それに出会うのも人生。
自らの力に、他者の力。
それが相互作用し、位相が起こる。

人が人を呼ぶ。

人を呼ぶために努力し続けなければならない。

再会を約束してレセプション会場へ。

いろんな談義をしたが、思いは伝わってきた。
あとは、それを実行するかだ。
「ようだい」だけはききたくない。
20代が多かったので、がむしゃらに生きることだ。
右脳で感じろ!

二次会、三次会へと進み。
2時。

もはや、3夜連続の午前様となり、酔いもひどい。

朝、無理やりからだを起こして午前中の「右脳と左脳」の講義を行う。

いろんな仮説を知ってもらい、新たな仮説を創造してもらいたい。
右半球だから、USN、左半球だから失語、それは結果でしかない。
その中身の仮説が21世紀になって急激に解明されている。
それを知ることが、来る患者さんへの、準備となる。

偶然は準備のできていないものを助けてくれない。

見るということは、視覚だけでない、脳のシステムで、観るということ。
観るということは、何かの視点に立つということ。
すなわち、現象のボトムアップが自らの知識のトップダウンの神経の流れと相互作用する瞬間を言う。

ここでは右と左は長くなるので触れないが、12月までには論文化しようと思う。

旧態依然の治療から一歩前進へ。

無事にコースも終了し、みんなと別れ、夜はよさこいのメンバーと懇親。
塾長の説得力、そして情熱は、いつも心打たれる。
理屈じゃない、それが魅力だ。

9月に再会を約束し、別れた。

4夜連続の午前様。

そして、朝の4時に起き、奈良に戻ってきた。

診察を終え、仕事に復帰。

考えてみるとはじめての夏のバカンス。

2週間も休みをとったのは初めてだ。
どうしても仕事が気になり、2~3日もすれば職場に来ていた自分。

それを払拭できた。

いったん、リセットすることは新たな創造を生むということに気づいた。
ずるずる脳を使っているからよくない。
これは運動学習にも言える(証明されている)。

そして、何よりも自分にとってよい感情を生み出した。

新たな企画で、あれもやりたい、これもやりたい、ということの前向きな感情がわいたことである。


そして、そろそろもどろうかという情がわいた。


仕事をしながらも、そういう企画は浮かぶのだが、幹が10本もありながら仕事を続けると混乱してしまう。

それをいったん伐採し、新たな芽を自らの脳に生えさせる。

一種の脳の野焼きだ。

この気持ちがいつまで続くかわからないが、12月までは続けたい。

土日はすべて講演で1年間ぐらい来ていた自分に休むことはいいことだと感じさせてくれた。

それに気づいた。

それをさせてくれたのも他者と自己の相互関係性である。


畿央大学健康科学研究所 開所記念シンポジウム

2007年08月23日 17時37分22秒 | 過去ログ

畿央大学健康科学研究所 開所記念シンポジウム

健やかに生きるために  ~脳とこころの科学からの新たな挑戦~

会場  / 畿央大学 冬木記念ホール
(難波駅より近鉄大阪線で約25分「五位堂」駅下車 バス5分または徒歩15分)
参加費 / 無 料
申込  / 参加を希望される方は平成19年10月3日(水)必着にて、下記1~6の内容をE-mail、はがき、FAXでお申し込みください。受講証の発行は致しません。当日、直接受付にお越しください。
1.氏名 2.氏名ふりがな 3.住所(郵便番号から) 4.電話番号 5.メールアドレス
6.所属先(団体名、学校名、企業名等)


〒635-0832 奈良県北葛城郡広陵町馬見中4-2-2畿央大学企画部
Kikaku@kio.ac.jp
FAX0745-54-1600
お問い合わせは電話0745-54-1603(担当:植村・渡部まで)


癒しのハート・クリーナー

2007年08月23日 07時14分56秒 | 過去ログ


久しぶりのUPような気がする。
熊本に母親の見舞い(見舞い前には九酔渓に立ち寄る)に行き、その帰りに阿蘇(南阿蘇、白水、内牧)に立ち寄る。
今回は、身体のいろんな箇所を休める意味で
何も考えないようにした。
10000円を切る露天風呂付部屋を探した甲斐がある。

日本人は働きすぎ、仕事にメリハリをつける、そんな思いで、今年ははじめて、欧州人のようにバカンスをとった。

阿蘇では、水の生命力や、謎の生物、マグリットの光の帝国の世界、月のクレーターや木星、彦星、織姫そして、M57星雲に出会った。
















M57星雲(リング状星雲)は、2000光年離れている。とうことは、2000年前の光を見ていることになる。イエスが誕生したころだ。

ロマンあふれる。

実は、歴史学者か天文学者かに夢見たころがあった。
小学生のときは、社会と理科が異様に好きだった。
歴史好きは今も根深い。自分自身、自分の講演のときにそれを垣間見ることができる。
一方、わからないもの好きっていうのは天文学の影響が大きいのかもしれない。
わかりきった事実をわかりきったように教えるっていうのにはロマンを感じない。
理学療法の授業ではその繰り返しである。
ということは、「科学」でないのである。
限界に挑戦する!そういう学問に底上げしないといけない。
何がわかって、何がわからないのかを、教師は知っておかなければならない。
もちろん、指導者もである。


熊本から大分へ、やはり九州はいい。

列車もきれいだし、風景もきれいだ。
以前から住むなら九州がいいと思っている。
そう簡単にはいかないが。

日本人の感性を取り戻す。
「脳を学ぶ」を出して、今一番心がけていることである。
自分の身体には日本の風土が染み付いている。


フェリーで松山、そして高速で、高知へ。
何十年ぶりのやまなみを車で走った。


奈良に帰り着く感覚とはまた違う感覚が。

明日からコースです。



体感温度を下げる視覚情報

2007年08月20日 07時49分18秒 | 過去ログ


標高1000m地点は、日中はまだ30℃を超えているが、夜間は温度が下がるのだろう。秋の七草の「すすき」がお目見えしている。

はぎ、ききょう、なでしこ、ふじばかま、くす、おみなえし、はお目見えしているだろうか。

仕事と休息を両立しているここ数日間である。

昼間はvacation、早朝に仕事の数日間である。

早朝といっても朝の3時から原稿などを操作しているから、深夜になるかもしれないけど。




Vacation

2007年08月17日 14時17分16秒 | 過去ログ


よさこいも終わり、同窓会も終わり、こころは秋色。
昨日は、研究仲間たちと遅くまで懇親。
店をはしごはしごする。
いつものこと。

昼は専ら、メールのやり取り&仕事、そして、本を20冊ほど持ってきており、それを読破し、ある仮説を検証するための手続きを考えている。
本を読み、考えることが私にとってのvacation。
英文まで手が回らない自分がだらけている証拠だ。



高知ベーシックの講義資料が明日までだが、宮本先生は韓国でのベーシックコース講演なので、遅れてもいいか・・・ 迷うところだ。

早いとこ、右半球と左半球の仮説検証システムを考えないといけない。

明日から熊本なので、熊本ですることにするか。

雲のない晴天が続くが、よさこい以来、放心状態なので、昼間は外に出ず、むぜんに皮膚がむげはじめる。




一個人

2007年08月15日 15時00分05秒 | 過去ログ
昨日は高校の同窓会。
実に高校卒業以来、はじめての同窓会であった。
クラス単位ではちょこちょこされていたようだったが、全体(全体といっても連絡がついた部分であるが)でははじめて、19年ぶりである。

自分たちは第二次ベビーブームのさきがけの世代で、クラスは1学年11クラスもあった。だから、卒業アルバムを見るとその大半は自分の記憶からは消されていた。

記憶は使わないと消去されてしまう。
このあたりが、エピソードと意味の違いだろう。

しかし、もう50代に見えるものや、おまえいったい今何をしているの?なんて者もいるので、面白かった。19年間みんないろんな生き方、人との出会い方をしてきたのだろう。

面白いもので、セラピストになったときぐらいは高校の友人と会って話すこと(昔話に花が咲く)が楽しかったが、だんだん、共通の話題がなくなり、みんな距離が出てくる。そして、10年もすれば、まさに10年一昔でほとんど会わなくなった。

だが、今回はそれを越えた感じで、昔話に花がさくではなく、近況を語り合い、お互いに紳士淑女となり、大人な会話があちらこちらで咲いていたようだ。

二次会、三次会へとかなりの人間が流れ、名残惜しそうな感じだった。
企画したものとしては、しらけてバラバラになるかと思えば、そんな感じもない。
みんな成長したのだろう(一部には変わらないものもいたが)。
どっちがいいかはわからない。
変わるもの、変わらないもの、それがシステムなんだろう。
脳細胞と同じである。

最近、キリンラガービール(たっすいがはいかんで高知の消費は日本一)の宣伝にYUMINGの「卒業写真(卒業式の退場曲だった、時代は長渕の乾杯ブームだったが)」「あの日に帰りたい」がかかる。

泣きながらちぎった写真を 手のひらにつなげてみるの
悩みなききのうのほほえみ わけもなく憎らしいのよ
青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう
あの頃の私にもどって あなたに会いたい

の歌詞を聴いている親父、おば様たちの目がとっても印象的な宣伝である。

ユーミン(荒井由美時代)の曲には実に色があるし、情景が浮かび上がる。
以前、若い時代は、竹内まりややユーミンの曲はいい曲だと思っても、その程度で、映像が浮かび上がるなんてことはなかった。

たぶん、耳でしか聞いていなかったんだろう。

しかし、自らの経験が豊富になることで、それが耳だけでなく、目、体も含まれ、私にしかない情景が浮かぶ。一人称的なものであるし、こころで音楽を聴いていることになろう。

荒井由美の天才ぶりを感じるし、自分も大人になり、そして他人を思いやることができるんだな、そしてセンチメンタルになる年代に入りつつあるんだと感じた。

しかし、中央フリーウェイの後ろの音の出し方は、プロというしかない。
ベースラインは最高やな。


高校時代の異性と出会うと、お互いに成長したことで、尊敬できる自分がいる。
若いときの「ほんとう」と「うそ」のあいだを行きつ戻りつつする「ことば」ではないのだ。

久しぶりに何もないただの「もりおか しゅう」という自分に出会えた。

それをしてくれる友人には感謝している。