昨日から神経系理学療法学演習
今年は認知神経リハビリテーションオンリーで行う。
昨日は宮本先生に来てもらい、午前中の3時間は、身体を介して世界に意味を与えることの意味、なぜ、認知過程、認知問題なのかについて話された。
いつもながら、スライドなし、資料なし、だが聴衆者(学生は素直なので、興味がなければ、聞かない)をひきつける能力はすごい。
じぶんよがりになっていない、ライブを展開する。
過剰な情報を与えない。
スライド(字が多い)ばかりの講義は、ひとりよがりである。
スライドは画像など適材適所で配置するべきである。
結局は、スライドに頼らざるを得ないのは、自らの脳がまだ未熟なのである。
午後は3コマ(4.5時間)実技。
コースでもこれだけの実技はとることができない。
綿密で繊細な身体に気づいてもらえればと思う。
セラピストの思考の複雑さが対象者の脳の複雑さに対応、共鳴する。
患者が治らないのは自分の治療(問題)に責任があるのだ。
でないと未来はない。
いつまでも、患者の病態に原因帰属できない。
セラピストが回復、再生をあきらめたら、患者はどうなるのだろう。
いずれにしても、上肢機能と歩行機能のための身体とはに気づけた人間が10名ぐらいいればいい。
自分に負けて、単純な思考に基づく歩行練習を繰り返す者もいるだろう。
それが社会システムだから。
質のわからない人間は、この思考がなかなかできない。
しかし、いつになく、実技が丁寧だった。
コースではないことである。
いずれにしても、感じる脳の大切さに気づいてもらえればと思う。
感知ということばはあっても、運知(うんち)や動知はない。
知ることは感じることでしかできない。
学習には感じることが大切だが、現状のリハビリを考えてみると、出す、出力することに終始していると思う。
それでは脳がかわいそうだ。
脳にも情報を、そして、その情報を捉える練習を、統合された瞬間、脳はうれしいはずだ。
一致した瞬間、それが気づきになる。
セラピストに、もっとこっちに出しなさい! なんていわれても脳は楽しくない。
なぜなら、もっとが、わからないし、こっちが、わからないからだ。
体で感じ、予測ができていないからだ(知覚仮説)。
視覚にだまされているからだ。
片麻痺の人たちは視覚世界と体性感覚世界がいつも違うので、相当にストレスだ。
われわれがいつも行為が無意識なのは、その世界がいつも一致しているからだ。
予測と外れることは、感覚世界の不一致なんだ。
それが、情報となり、気づきとなる。
差異を生み出す差異が認知問題であることにも気づいてもらえるだろう。
見ている世界と感じている世界が違う。
そんなところで障害者は生きている。
いずれにしても、歩行介助として無理やり骨盤を押して、患者を歩かせてた時代が自分にもあったが、現代科学がそれを否定してくれている。
それに学生たちも気づいてもらいたい。
卒業後30年、同じ思考で同じ治療をし、同じ教育をしている自分の未来像に明るさ、楽しさ、華やかさはない。
そこには、自分の魂はない。
時代に流されるぬけがらのようなものだ。
19時より奈良県リハビリテーションセンターで、奈良県認知運動療法勉強会に参加。
久し振りに参加した。
みんないろんな方向があるが、もう一度原点に立ち戻って、認知問題、知覚仮説を徹底させてほしい。
一人称記述は患者の脳を知るための枝であり、幹は自らの評価に基づく認知問題なんだから。
そこを間違えば、すべてが間違う。
観察(見る、触る、聴く)に基づく病態仮説、そして認知問題の吟味の討議をしてもらいたい。
行為・運動から外れてはいけない。
今年は認知神経リハビリテーションオンリーで行う。
昨日は宮本先生に来てもらい、午前中の3時間は、身体を介して世界に意味を与えることの意味、なぜ、認知過程、認知問題なのかについて話された。
いつもながら、スライドなし、資料なし、だが聴衆者(学生は素直なので、興味がなければ、聞かない)をひきつける能力はすごい。
じぶんよがりになっていない、ライブを展開する。
過剰な情報を与えない。
スライド(字が多い)ばかりの講義は、ひとりよがりである。
スライドは画像など適材適所で配置するべきである。
結局は、スライドに頼らざるを得ないのは、自らの脳がまだ未熟なのである。
午後は3コマ(4.5時間)実技。
コースでもこれだけの実技はとることができない。
綿密で繊細な身体に気づいてもらえればと思う。
セラピストの思考の複雑さが対象者の脳の複雑さに対応、共鳴する。
患者が治らないのは自分の治療(問題)に責任があるのだ。
でないと未来はない。
いつまでも、患者の病態に原因帰属できない。
セラピストが回復、再生をあきらめたら、患者はどうなるのだろう。
いずれにしても、上肢機能と歩行機能のための身体とはに気づけた人間が10名ぐらいいればいい。
自分に負けて、単純な思考に基づく歩行練習を繰り返す者もいるだろう。
それが社会システムだから。
質のわからない人間は、この思考がなかなかできない。
しかし、いつになく、実技が丁寧だった。
コースではないことである。
いずれにしても、感じる脳の大切さに気づいてもらえればと思う。
感知ということばはあっても、運知(うんち)や動知はない。
知ることは感じることでしかできない。
学習には感じることが大切だが、現状のリハビリを考えてみると、出す、出力することに終始していると思う。
それでは脳がかわいそうだ。
脳にも情報を、そして、その情報を捉える練習を、統合された瞬間、脳はうれしいはずだ。
一致した瞬間、それが気づきになる。
セラピストに、もっとこっちに出しなさい! なんていわれても脳は楽しくない。
なぜなら、もっとが、わからないし、こっちが、わからないからだ。
体で感じ、予測ができていないからだ(知覚仮説)。
視覚にだまされているからだ。
片麻痺の人たちは視覚世界と体性感覚世界がいつも違うので、相当にストレスだ。
われわれがいつも行為が無意識なのは、その世界がいつも一致しているからだ。
予測と外れることは、感覚世界の不一致なんだ。
それが、情報となり、気づきとなる。
差異を生み出す差異が認知問題であることにも気づいてもらえるだろう。
見ている世界と感じている世界が違う。
そんなところで障害者は生きている。
いずれにしても、歩行介助として無理やり骨盤を押して、患者を歩かせてた時代が自分にもあったが、現代科学がそれを否定してくれている。
それに学生たちも気づいてもらいたい。
卒業後30年、同じ思考で同じ治療をし、同じ教育をしている自分の未来像に明るさ、楽しさ、華やかさはない。
そこには、自分の魂はない。
時代に流されるぬけがらのようなものだ。
19時より奈良県リハビリテーションセンターで、奈良県認知運動療法勉強会に参加。
久し振りに参加した。
みんないろんな方向があるが、もう一度原点に立ち戻って、認知問題、知覚仮説を徹底させてほしい。
一人称記述は患者の脳を知るための枝であり、幹は自らの評価に基づく認知問題なんだから。
そこを間違えば、すべてが間違う。
観察(見る、触る、聴く)に基づく病態仮説、そして認知問題の吟味の討議をしてもらいたい。
行為・運動から外れてはいけない。