◇自我と真我◇
ここでいう自我とは、通常の肉体感覚等で認識する私自身です。
真我とは、観照意識です。
(真我の捉え方は様々で、私自身も過去様々な捉え方をしていました。しかし、現在の私の認識としては、それを観照意識であるとするのが、真我という概念を最も多用するアドバイタの覚者たちの認識にも近く、無難なのだろうと思っています。)
この記事で言いたいことは、ただ一つ。
一切は考えなのですが、自我と真我、どちらがより本質的な考えなのかということです。
さあ、どっちでしょう。
その言葉からして、真我がより本質だろうと思われるでしょうが、実は違います。
より本質的なのは、真我の私ではなく、自我の私なのです。
それを理解するポイントは、誰がそれを認識しているのか、というところにあります。
つまり、究極的な認識者は誰なのかということです。
それは自我なのです。
多くの覚者たちは、真我を知るとそれを握ってしまいます。
そして、自らの主体性を見失い、真我に依存してしまいます。
どうか賢明な方は、真我も私という自我の認識であり、考えであることに気づいて頂きたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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真我とは、観照意識です。
(真我の捉え方は様々で、私自身も過去様々な捉え方をしていました。しかし、現在の私の認識としては、それを観照意識であるとするのが、真我という概念を最も多用するアドバイタの覚者たちの認識にも近く、無難なのだろうと思っています。)
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一切は考えなのですが、自我と真我、どちらがより本質的な考えなのかということです。
さあ、どっちでしょう。
その言葉からして、真我がより本質だろうと思われるでしょうが、実は違います。
より本質的なのは、真我の私ではなく、自我の私なのです。
それを理解するポイントは、誰がそれを認識しているのか、というところにあります。
つまり、究極的な認識者は誰なのかということです。
それは自我なのです。
多くの覚者たちは、真我を知るとそれを握ってしまいます。
そして、自らの主体性を見失い、真我に依存してしまいます。
どうか賢明な方は、真我も私という自我の認識であり、考えであることに気づいて頂きたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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