私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

自我と真我

2018年03月16日 10時10分34秒 | 悟り
◇自我と真我◇

ここでいう自我とは、通常の肉体感覚等で認識する私自身です。
真我とは、観照意識です。
(真我の捉え方は様々で、私自身も過去様々な捉え方をしていました。しかし、現在の私の認識としては、それを観照意識であるとするのが、真我という概念を最も多用するアドバイタの覚者たちの認識にも近く、無難なのだろうと思っています。)

この記事で言いたいことは、ただ一つ。
一切は考えなのですが、自我と真我、どちらがより本質的な考えなのかということです。

さあ、どっちでしょう。

その言葉からして、真我がより本質だろうと思われるでしょうが、実は違います。
より本質的なのは、真我の私ではなく、自我の私なのです。

それを理解するポイントは、誰がそれを認識しているのか、というところにあります。
つまり、究極的な認識者は誰なのかということです。
それは自我なのです。

多くの覚者たちは、真我を知るとそれを握ってしまいます。
そして、自らの主体性を見失い、真我に依存してしまいます。

どうか賢明な方は、真我も私という自我の認識であり、考えであることに気づいて頂きたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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判断と連鎖(2)

2017年09月24日 16時17分55秒 | 悟り
◇判断と連鎖(2)◇

私たちは常に何らかの判断をし、それに基づく感情、衝動、思考等の連鎖の行程を延々と繰り返しています。
判断について何の疑いも生じないのはどうしてでしょう。
あるいは、どうしてそれを疑うことができないのでしょう。
そこに何の違和感も感じないのはどうしてでしょう。

判断について何の疑いも生じないのは、そこにあなたの深い思い込みがあるからではないですか?
疑うことができないのは、そうすることへの恐れがあるからではないですか?
何の違和感も感じないのは、あなたの思い込みが余りにも深く、盲点になってしまっているからではないですか?

あなたは、その判断に基づく連鎖の行程をいつまで続けるつもりですか?


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判断と連鎖(1)

2017年09月22日 10時24分41秒 | 悟り
◇判断と連鎖(1)◇

私たちは常に何らかの判断を繰り返しながら生きています。
いい悪い、正しい正しくない、価値があるない、上等下等など。
そして、それらの判断に基づいて感情が起こったり、衝動が起こったり、次の判断等の何らかの考えが起こっていきます。
殆どの場合、それらは何の疑いもなく無意識に行われ、連鎖していきます。

そのように、無意識に連鎖の行程を繰り返すのではなく、判断に連鎖した感情に呑み込まれる前に、あるいは衝動的に走り出す前に、あるいは判断の上に別の判断を積み上げる前に、一度立ち止まって頂きたいのです。
何の疑いもなく判断を行い、それに連鎖した行程を繰り返していることに、気づいて頂きたいのです。

そこに何の違和感も感じませんか?

その判断は本当に確かなものなのでしょうか。
その判断の根拠はどこにあるのでしょうか。
あなたは根拠もないのに、その判断に基づいて行動しようとしているのでしょうか。
一度立ち止まり、その判断をしっかりと検証して頂きたいと思います。


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解脱と慢

2017年07月01日 21時41分19秒 | 悟り
◇解脱と慢◇

以前、煩悩の慢について考えたことがありまして、そのことを文章に書いてみようと思います。

人に備わる種々の衝動について、それらを煩悩として捉える考え方があります。
その煩悩の中で、最後まで残るのが慢と言われているようです。
しかし、その慢も解脱の悟りに至ると落ちる訳なのです。
それはどうしてかということを考えた訳です。

その前に、どうして慢が最後まで落ちないのか、その理由を私なりに書いてみます。
大悟では、囚われが薄くなるのに伴って、観るものは観られるものを実感するようになります。
そして、さらに悟りが進むと、私とは意識の連鎖であり、意識そのものであるということを理解するようになります。
しかし、それでも慢は落ちないのです。
その理由は、自らの得た悟りをまだしっかりと掴んでいるからなのです。
自分は到達した、自分は知っているという慢が落ちないのです。

ではどうして、その慢が解脱の悟りに至るのに伴って落ちるのでしょう。
それは、一切皆苦の理解が起こる、あるいはそれが腑に落ちるからなのです。
何もかもが苦であり、私という存在そのもの、この世界そのものが苦である訳ですから、誇るものなど何もなくなる訳です。
慢も落ちるという訳です。


もっともったいぶって書きたかったのに、何だか小話のような軽い感じになってしまいました。(^o^)


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識と苦

2017年04月21日 10時38分38秒 | 悟り
◇識と苦◇

私とは識の連鎖であり、これ即ち苦である。

苦とは識の連鎖であり、これ即ち私である。


今日は久しぶりに悟りについて、振り返るというか、考えていました。
それで、根本苦について、それを端的に言い表す表現はないかと考えていたところ、取りあえずのものとして、上のような表現に至りました。


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「ただ観る」という意識の状態について

2017年03月28日 18時02分34秒 | 悟り
今朝ネットを見ていたら、久しぶりに記事を書いてみようという気になりました。(^^)


◇「ただ観る」という意識の状態について◇


「ただ観る」という意識の状態について、あまりに漠然とした理解や誤解が多いようなので、私なりの説明を書いてみようと思います。

「ただ観る」という状態とは、その言葉の通り、あらゆる現象をただ観ている意識の状態をいうのですが、これだけでは余りに曖昧な訳です。
このただ観ている状態は、思考が抑制されてくれば自ずと表面に現れてくるものであり、それ程めずらしいものではありません。
この状態のことを真我や純粋理性と結び付け究極であるかのような理解をしてしまう方々がいますが、それは誤解です。

「ただ観る」という状態は、まだ囚われや迷いの中なのです。
どういうことかと言いますと、「ただ観る」という意識の状態には、ただ観ている視点や意識の状態に対する囚われがあるのです。
もっと言えば、そこには、ただ観ているものについて何かがあるはずだという絶対的あるいは恒久的なものに対する強い囚われがあるのです。
そもそものところ、「ただ観る」という状態も、真我や純粋理性も含めて、絶対的なものや恒久的なものはないのです。

どこかから、「おまえの説明の方が曖昧だぞ!」という声が聞こえてきそうなので、もう少し具体的な点からも説明しておきます。
端的に言うと、「ただ観る」という状態は、観ている視点とその対象とがまだ分離しているのです。
つまり、まだ「視点」が落ちてない訳です。
自我の厚みが、まだ厚い訳なのです。

今度は、「じゃあ、「ただ観る」という状態の先はどういうものなんだよ!」という声が聞こえてきそうです。

その先にあるのが、一つは「観るものは観られるもの」の状態ということになる訳です。
「観るものは観られるもの」の状態では、観ている視点(主体)が落ち、その対象(客体)だけとなる訳です。

囚われが減り、それに伴って自我の厚みが薄くなれば、自ずとこういったことを経験するようになります。


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不自由に気づく

2016年05月15日 17時52分29秒 | 悟り
このブログのコメント欄に自由に関する書き込みがあったので、その周辺のことをちょっと書いてみようと思います。


◇不自由に気づく◇

悟りを深めていく行程で自由に関する何らかの気づきや理解、あるいは自由な感覚になることがあります。
それは、自らを縛る拘りに対する気づきや受け入れに伴い、そのような気づきや感覚が起こるからです。
そして、多くの方はそこで有頂天になってしまいます。

そのような方は、自由に関する囚われや思い込みがある方です。
自由であることが本来であり、良いことだ等の思い込みがあるのです。

浮かれていないで、もう一度冷静に自らの姿をよく観て頂きたいと思います。
本当に自由と言えるのか、じっくりと確かめて頂きたいと思います。

自分の自由になることより、自由にならない、どうにもならないことの方が圧倒的に多くないですか?


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相反する二つの根本的な恐れ

2015年11月09日 07時55分02秒 | 悟り
◇相反する二つの根本的な恐れ◇

私という存在の根底には、相反する二つの根本的な恐れがあります。
一つは、存在が消滅することに対する恐れであり、もう一つは、存在が継続することに対する恐れです。

多くの方は、前者の恐れの方が勝っています。
そのような方は、何かの考えを握り締め、それに縋ります。
それが存在への執着となります。

しかしいずれ、考えにしがみつくことに空しさというか、違和感を感じるようになっていきます。
そして、存在そのものの性である根本的な苦に触れるようになっていきます。
そうすると、後者の恐れの方が徐々に勝ってくるようになります。

そのような方は、解脱へと向けて歩むことになります。

なお、最後は後者の恐れも忽然と消え去ります。


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※現在、各セッションはお休み中ですが、できれば12月には(遅くとも年明けには)再開したいと思っています。

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自分自身の弱さ、脆さを許す

2015年11月07日 18時25分54秒 | 悟り
◇自分自身の弱さ、脆さを許す◇

私たちは誰しも、弱さ、脆さを持っています。
しかし、私たちはそんな自分自身の姿を余り見ないように、認めないようにしています。
余りそこに意識を合わせると、あるいはそこを認めてしまうと、頑張っている自分が崩れ去り、ダメになってしまいそうで怖いのです。
そこに意識を向けないように、認めないようにして、自分自身を奮い立たせ保っているのです。

でも、そんなに自分自身を奮い立たせ保とうしなくても大丈夫なんです。
そんなに頑張らなくもいいんです。

自分自身を保とうとするその力を少し緩めて、一度立ち止まってください。
そして、自分自身に意識を向け、素の自分自身の姿を見てください。
ありのままの自分自身の姿に気づいてください。
それを認め、受け入れてください。

ほら、何か気づきませんか?(^^)


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外に何かを求めているうちは難しい

2015年10月10日 07時18分20秒 | 悟り
◇外に何かを求めているうちは難しい◇

覚者も含めて大半の方がそうなのですが、みなさん、外に何かを求めています。
成功や幸せ、満足もそうですし、楽や幸福もそうです。
また、愛や感謝もそうですし、瞑想もそうです。
悟りだってそうです。
多くの方は、悟りを外に向かって探そうとします。

つまりのところ、何かに頼っているのです。
あるいは、縋りたいという衝動が余りにも強いのです。
そのため、外へ外へと意識が彷徨ってしまうのです。

それでは難しいのです。

外ではなく、内へ、即ち「私」に意識を向けて頂きたいのです。
そして、外側へ彷徨い出そうとしている自分自身に気づいて頂きたいのです。
何かに縋り付いている自分の姿に気づいて頂きたいのです。


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そもそも何の束縛もありません

2015年10月09日 07時42分31秒 | 悟り
◇そもそも何の束縛もありません◇

大半の方は、沢山のやってはいけないことや、やるべきことを持っています。
そうやって自分自身をがんじがらめに縛り、制限しながら生きています。
そして、その自分の制限に反した行動をすると、良心の呵責や後悔に悩まされます。

しかし、そもそものところ、やってはいけないことなど何ひとつないのです。
その「やっていはいけない」とか、「こうするべき」等の考えこそが、あなたが握り締めている囚われなのです。

囚われがあるから、「それをやってはいけない」等の考えが起こるのであり、また「やってしまった」という後悔が起こるのです。

自分が囚われを握り締め、自分自身を縛り付けていることに気づいて頂きたいと思います。


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どうして放っておけないのか

2015年10月06日 08時32分28秒 | 悟り
◇どうして放っておけないのか◇

どうして放っておけないのか。
どうして放っておけずに、相手をしたり、応戦してしまうのか。

あなたは、何を守ろうとしているのか。
また、何を得ようとしているのか。

本当にそれは、守るべきものなのだろうか。
また、わざわざ得ようとするほどのものなのだろうか。

守るべきという価値や意味づけをしているのは、あなたの勝手な思い込みに過ぎないのではないのだろうか。

放っておけないのは、それを失うことをあなたが恐れているだけなのではないだろうか。

あなたがあなた自身の思い込みにしがみついているだけなのではないだろうか。


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苦に対する恐れがいつも邪魔をする

2015年10月03日 08時55分26秒 | 悟り
◇苦に対する恐れがいつも邪魔をする◇

どのような方も、大切なこと、やりたいことをちゃんと持っています。
しかし、多くの方は自分の本心に目を背け、見て見ぬふりをして生きています。
どうしてそのように、表面的にしか生きられないのでしょう。

それは、苦に対する恐れが邪魔をするからです。
いつもいつもそうです。

「私」に意識を向ける自覚だってそうです。
どうして「私」に意識が向かないのか、向けられないのか。
それは、苦に対する恐れが邪魔をしているからなのです。
苦に対する恐れに負け、「私」と向き合えないのです。

あなたはそうやって、いつまで恐れ、逃げ続けるつもりなのですか?


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自分の主張を疑え

2015年10月02日 21時20分33秒 | 悟り
◇自分の主張を疑え◇

何かの考えを握り締めている人は、その考えに関連して起こってくる考えを主張します。
それをやっている本人は、多くの場合、自分が考えを握っていることも、その握っている考えがそれに関連する種々の衝動を引き起こしていることに全く自覚がありません。
自覚がないため、考えを握りっぱなしですし、握った考えによって引き起こされる種々の衝動に振り回され続けます。

そのように盲目的に衝動のまま自分の考えを主張するのではなく、自分が主張しているその考えが、主張するに足る確固たるものなのかどうか、追求して頂きたいと思います。
自分の主張が正しいと安易に信じるのはなく、あるいはそう思い込もうとするのではなく、自分の主張を疑って頂きたいと思います。
その主張に根拠があるのかどうか、徹底的に追求して頂きたい思います。

他人の考えに対しては直ぐに批判的な目を向けるのに、どうして自分の考えに対してはそれ程までに甘いのでしょう。
そこには、何かに縋りたいというあなたの依存心があるのではないでしょうか。


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恐れるべきは代償ではなく後悔

2015年10月01日 07時33分01秒 | 悟り
◇恐れるべきは代償ではなく後悔◇

誰にだって、やりたいことや大切なことはあります。
しかし、多くの方は自分の本心から目を背け、それを見ようとしません。

どうしてそうやって、自分の本心から目を逸らすのでしょう。
見て見ぬふりをするのでしょう。
安易に妥協して、楽な方、楽な方へと流され続けるのでしょう。

多くの方は、自分の本心に取り組むことにより生じる大変さや苦しみ等の代償を恐れているのです。

しかし、本当に恐れるべきは、そのような代償ではなく、後悔することだということに気づいて頂きたい思うのです。

後で後悔することほど、大きく、しかも長く続く苦しみはありません。
そのことに気づいて頂きたいと思います。


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