私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

私の不思議体験

2022年05月15日 20時57分43秒 | エッセイ
◇私の不思議体験◇

以前、ブログ付設の掲示板に書いたものですが、改めてこのブログにも書いてみようと思います。

不思議体験の類については、私は心霊体験も含めて殆ど体験したことがないのですが、一つだけありまして、今回はそれについて書いておきたいと思います。

それは、2013年の9月末か10月始めの夜中のことでした。
眠れないのもあって、ふっと瞑想をしてみようと思って、自宅のいつも家族と寝ている部屋から、短い廊下を通って真っ暗な別の部屋に入ったときでした。
部屋に入ったところで、薄ぼんやりとした光のようなものを感じたのです。
でも最初は、特に気にしないでそのまま部屋の中の方に入って行こうとしたのです。
そうしたら、自分の顔に何かもわんとする、気のエネルギーのようなものが触れたのです。
それで、何かあると思って驚いて、一歩下がって、目の前を見たのです。

すると、ちょうど目の高さの正面に、薄ぼんやりとした直径40cmほどの紫色の光のボールのようなものがあったのです。
恐怖心は不思議なほど全く無く、その光のボールを両手で両側から包むようにしながら、私はそれを何だろうと思って凝視しました。
そして、私はその光のボールに、
「あなたは誰ですか?」、
「私に何かご用ですか?」
と聞きました。

しかし、その光のボールからは何の返事もありませんでした。
そのまま、おそらく1分ほどの時間が過ぎたころ、その光のボールが帰ろうとしていることが分かったので、私は、「来てくれてありがとう」と言って、光のボールに添えていた手を離しました。
すると、光のボールはゆっくりと上方に浮かび上がりながら、消えていきました。

そのあと私は、いまの光のボールは何なのだろうと思いながら、その部屋で瞑想を始めました。
そのとき私がしようとした瞑想は、目を閉じて意識を静かに落ち着かせるだけの普通のものでした。

瞑想を始めて直ぐに、自分の意識が宇宙空間のような空間に入ったのでした。
そして、それに続いて、私の意識は、光のトンネルに吸い込まれていったのでした。
その光のトンネルは、ちょうどSF映画のワープ航法のときの映像のように、多数の黄白色の光が前方から後方にもの凄い速度で流れ去っていくような感じでした。

不思議と恐怖心はなく、私はそのとき、どこまでも行ってやろう、そして見てやろうと思っていました。
戻れなくなるかも知れないとも思いましたが、それでもいいと思い、進んで行きました。
どのくらいの時間、光のトンネルの中を進んだのか分かりませんが、途方も無い遙か彼方まで飛んで行っているような感じがしていました。

すると、スーッと光のトンネルを抜けて、また宇宙空間のような空間に出たのです。
そして、その空間の中を前方に進んでいっていると、その空間の右斜め前方に、宇宙人らしき存在の姿が1人から3人ずつ、順番に浮かんでは消えていきました。
正確には、このとき現れたのは宇宙人そのものではなく、暗い宇宙空間を背景に黄白色の光で描き出されたスケッチのような宇宙人の映像でした。
また、その宇宙人の映像は、体全身のものではなく、肩から上の部分のものでした。

全部で10人ほどの宇宙人の姿が浮かんでは消えていきました。
その後、再び光のトンネルに入っていきました。
そして、光のトンネルの中をまた延々と飛んで、普通の瞑想の意識に戻りました。

私は光のボールを見たことも、瞑想中に変わった体験をしたこともありませんでしたので、頭の中が「???」になりながら、瞑想を終えて寝てしまいました。
今もあの体験が何だったのかは分からないままです。

以上、私の唯一の不思議体験でした。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。

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死んで納得できるか

2022年05月15日 14時33分36秒 | 生きるヒント
◇死んで納得できるか◇

いま世界的に自殺する人が増えています。
自殺について考えるときの核心部分は、とてもシンプルであり、ハッキリしています。
それで本人が納得できるかどうかです。
そこを、よくよく考える必要あるのです。
死ぬことが本当に自分のやりたいことなのか、ということです。

よくよく考えればわかることですが、自分のやりたいことが死ぬことだなんていう人はいないのです。
死んで納得できる訳ないんです。
やりたいこと、つまり本心が他にあるのに、それから目を背けて逃げてる訳ですから。

そうは言っても、精神的に参ってしまうと、自分の本心もわからなくなるのかもしれません。
普通の精神状態にいる人でも、自分の本心がわかっている人は少数ですから。

そうするとやっぱり、日ごろから自分の本心に向き合って生きる必要があるのだろうと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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自由意志の不思議

2022年05月15日 13時16分44秒 | 私の成り立ち
◇自由意志の不思議◇

自由意志については、このブログでも何回か書いたことがあるのですが、もう一度改めて書いてみようと思います。

自由意志、発意と言ってもいいですが、これは自我の本質的要素の一つになっています。
しかし、本質的要素であるにも関わらず、捉えるのが非常に困難であり、また誤解も多く(むしろ誤解ばかり)、とても難しくやっかいなものです。
今回の記事では、そういう自由意志の不思議さについて書いてみたいと思います。

自由意志について、日常的な素直な感覚を言えば、自分には自由な意志が実感としてあると思います。
手や足は自分の思った通り動かせるし、頭の中で考えごとをするときも自由に考えを巡らせることができます。
これは極めて重要かつ本質的なことであり、この観点からは自由意志はあると考えるのが妥当だと思われます。

では次に、私という意識を微細要素に分解して観たときどうなるかについて説明したいと思います。
私という意識は、連鎖的に展開する識の連鎖として捉えることができます。
識とは、意識の識であり、六根(五感と意)に関連した認識の最小単位のことです。
この識が、映画のフィルム映像のように断続的にパッ、パッ、パッと止めどなく連鎖的に展開していくことで、私という意識が繰り広げられていくようになっています。
ちなみに、識と識との間の時間間隔は、体感的な数値ですが数十から千分の一秒くらいの間隔だろうと考えています(これは私の感覚に基づくものです)。

このような観点から私という意識を観たとき、識はパッ、パッ、パッとフィルム映画のように連鎖的にただ展開していくだけですので、そこには自由意志が介在する余地がなく、自由意志は幻想のように思えます。
もっと明確に言うとすると、この観点からは自由意志は存在せず、幻想であると考えるのが妥当だと思われます。

このように自由意志は、日常的な観点(マクロの観点)だとしっかりと実感できるのに、私という意識を微細に観たとき(ミクロの観点)、その関連する要素を含めて姿を消してしまうのです。

ここで大切なことは、いずれのか一方の観点が間違っているのではなく、おそらくどちらの観点も正しいと考えるべきだということです。
ここが自由意志の不思議なところであり、難しく、誤解も生じやすいところだと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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