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シェアにまいりました
[参照]
「覚醒の炎」
(ナチュラルスピリット社) の3章
36ページから
38ページにかけて
いつもある精神統一(解放の意味)のパパジによる説明がかいてあります。
パパジの
この章での質問者へのアドバイスは観照というアプローチからはじまっているので、奇跡のコースの選択的赦しとは説明の形態が異なりますので
最初の36ページの前半までは、奇跡のコースの学習者の方々はよまなくても大丈夫です。
では37ページから
文章そのままの引用はしませんが
読書メモを足してかきます
()は読書メモ
パパジは、質問者の質問に応えて
この状態(ハート瞑想、常にある瞑想、サハジャ瞑想)の説明をしています。
(ハート瞑想になった状態の)質問者が
自我について質問しています
パパジは
この状態の中で、それ(自我)は燃え尽きたロープのようになるとのべています。
(自我)ロープをつかもうとしても
(それでさらに)縛ろうとしても
あなたの指からこぼれおちていくだけだ
(燃え尽きたロープの喩え)
瞑想(いつもある精神統一)は続いていく。それはその(癒しの)仕事をするだろう。
瞑想(いつもある精神統一)というのは
「絶え間なく」あるのです
質問者は
…興味深いことに、ある種(ハート)の知覚が、ある特殊な知覚が起こっているようなのです
とのべています
パパジはそれについて
だがそれは努力を要しない。
ある種の集中(融合:自我への集中とは異なる)はおこっている。
とのべます
質問者は
パパジに
あなたはこの(ハート)変容の重要性について語ってきましたが、特別のものには感じられない
といいます
パパジは
それでいい、といいます
それは
自我(特別)ではないからです
パパジの38ページの最後の説明の意味は
たいていの学習者はこの状態(いつも癒されていること)をしらない(自覚できていない)
それは学習者が
あるがままにとどまることを望んでいないからだとのべます
彼らは他のなにかになりたい。そしてそれが心を惑わすのだ
といいます
さいごに質問者に
あなたは「何の変化もない」
と言った。
それでいいのだ。
とのべます
?私があるがままに
なろうとかするのでもなく
いつも精神統一があることに気づいた状態が
ハート(いつもある)瞑想なのです
私も上記のパパジの本は読んだことがあり、いまも持ってます。
ちょっと気になって久しぶりに、引用部分を読んでみました。
この質問者は、おそらくそれなりに深い観照意識が表面に出ている状態なのだとは思います。
しかし、まだまだ握りしめた囚われが残っていて、その自らの囚われに気づいていく行程が残っているはずです。
パパジが「それでいい、それがあるがままだ」と言うには、まだ早い過ぎるのです。
そして、そう言うパパジにもまだ、囚われが残っているのです。
最近、ネットでテーラワーダのある文献を読みまして、そこには、
人が今生において仏法に出会う為には過去生から善行の種を積む必要があり、
人が今生において仏法を徹底的に理解する為には過去生から智慧の種を積み重ねる必要がある。
というような事が書かれていたのですが、慧空様はどのように思われますか?
悟りに至る為にはそのようなものは必要だと思われますか?
ちなみにその文献とは「パオ・セヤドー問答集」
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.question.pdf
その中の問11-12に書かれておりました。
>人が今生において仏法に出会う為には過去生から善行の種を積む必要があり、
>人が今生において仏法を徹底的に理解する為には過去生から智慧の種を積み重ねる必要がある。
どうなんでしょうね。
しかし、上の経典の記載は、いろいろ問題があるとは思います。
まず、前世や輪廻転生があることが前提となっている点です。
これは大いに問題です。前世や輪廻があるかどうかなんて、誰にも分からないんです。
そのようなあやふやなことを前提とした話しですから、過去世から善行や智慧を積むなんて話しをされても、話しにならないのです。
そういうことで、この手の経典類はまともに読む気になれません。
また、輪廻の話しを置いておいて、悟りに善行が必要かと言えば、必要じゃないでしょうね。
智慧についてもそうで、智慧は積むものではなく、結果として自ずと育っていくものであり、智慧の発達は目的とはなり得ないのです。
つまり、積もうとして積めるものではないのです。
悟りについても、そうでして、悟りを目指しても悟れるものではないのです。
では、どうしたらいいのかといいますと、後悔しないよう懸命に生きること、ただそれだけなんです。
そして、後悔しないようにするにはどうしたらいいかと言いますと、自身の本心に気づき、本心に素直に生きることだ、ということになる訳です。
確かに、前世や輪廻転生は確認しようが無いことですからね。
修行にはやはり確かめようのない事は必要なく、
自分で確認できる範囲だけで充分足りるという事でしょうね。
そもそも、悟るために修行しようとする必要もなく、
後悔しないよう懸命に生き本心に素直に生きていれば人によっては自然と悟りへの縁が出来てくるという事でしょうか。
そこで一つ質問なのですが「本心に素直に生きる」とはどの様な生き方なのでしょうか?
まさに。
>「本心に素直に生きる」とはどの様な生き方なのでしょうか?
ぜひご自分で考えていただきたいと思います。
承知致しました。