◇アドヴァイタの悟りについて◇
今回は、アドヴァイタ(非二元)の悟りについて書いてみようと思います。
いつものように、肯定するのではなく、ここが違うよという批判記事なのですが、興味のある方はお読みください。
アドヴァイタの悟りは、二つの悟り階層があります。
一つ目の階層は、真我を悟る階層です。
真我とは、ただ観ている意識である観照意識で、気づきの意識と言ってもいいです。
観照意識は、良い悪い等の二元的な囚われが落ち、思考や感情が減ってくると、雲が晴れるようにして意識の表層部に現れてきます。
この観照意識に気づく、あるいはそれを捉えることで、真我の悟りとなります。
二つ目の階層は、梵我一如を悟る階層です。
我とは、私という個を構成する原理などという捉え方もあるようですが、簡単に言うと、私という自我であり、主体のことです。
梵とは、世界を構成する原理などという捉え方もあるようですが、これも簡単に言うと、世界あるいは対象である客体のとこです。
梵我一如を悟るとは、私である主体と世界である客体とが同一、つまり一体不可分であることを悟ることです。
この梵我一如の悟りは、主客の統合に関する悟りであり、一つ目の真我の悟りにより捉えた観照の視点、つまり主体的視点が脱落し、対象である客体と統合されることでそれに至ります。
この主客の問題について補足しますと。
常識的な日常の感覚では、私が目の前のリンゴを観るとき、私という主体とリンゴという客体は別個に存在しているように感じていますが、これは私たちの錯覚なのです。
リングに限らず、五感を通じて何か対象を認識するという現象について、それがどういうことなのか合理的に徹底的に追及していくと、主体と客体が別個に存在しているという錯覚が剥がれ落ち、主体と客体が一体不可分であると認識せざるを得ないところに必ず突き当たるのです。
次に、アドヴァイタの悟りについての批判です。
アドヴァイタの悟りには、大きな誤りがあるのです。
それは何かと言うと、絶対的なものに対する囚われ(執着)が手放せてないのです。
一つ目の悟りである真我の悟りでは、観照意識である真我について恒久不滅のものとして捉えてしまうのです。
恒久不滅のものなど何処にも無いのに、彼らはそれが受け入れられないのです。
二つ目の悟りである梵我一如の悟りでは、主体と客体に関する錯覚の剥落は一応あるものの、以前として、一体不可分であるとして捉えられた私(主体)である真我についても、対象(客体)である世界(あるいは、それを構成する原理)についても、それらが恒久不滅、絶対的なものとして捉えてしまうのです。
ここが彼らの悟りの誤り、即ち限界なのです。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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一つ目の階層は、真我を悟る階層です。
真我とは、ただ観ている意識である観照意識で、気づきの意識と言ってもいいです。
観照意識は、良い悪い等の二元的な囚われが落ち、思考や感情が減ってくると、雲が晴れるようにして意識の表層部に現れてきます。
この観照意識に気づく、あるいはそれを捉えることで、真我の悟りとなります。
二つ目の階層は、梵我一如を悟る階層です。
我とは、私という個を構成する原理などという捉え方もあるようですが、簡単に言うと、私という自我であり、主体のことです。
梵とは、世界を構成する原理などという捉え方もあるようですが、これも簡単に言うと、世界あるいは対象である客体のとこです。
梵我一如を悟るとは、私である主体と世界である客体とが同一、つまり一体不可分であることを悟ることです。
この梵我一如の悟りは、主客の統合に関する悟りであり、一つ目の真我の悟りにより捉えた観照の視点、つまり主体的視点が脱落し、対象である客体と統合されることでそれに至ります。
この主客の問題について補足しますと。
常識的な日常の感覚では、私が目の前のリンゴを観るとき、私という主体とリンゴという客体は別個に存在しているように感じていますが、これは私たちの錯覚なのです。
リングに限らず、五感を通じて何か対象を認識するという現象について、それがどういうことなのか合理的に徹底的に追及していくと、主体と客体が別個に存在しているという錯覚が剥がれ落ち、主体と客体が一体不可分であると認識せざるを得ないところに必ず突き当たるのです。
次に、アドヴァイタの悟りについての批判です。
アドヴァイタの悟りには、大きな誤りがあるのです。
それは何かと言うと、絶対的なものに対する囚われ(執着)が手放せてないのです。
一つ目の悟りである真我の悟りでは、観照意識である真我について恒久不滅のものとして捉えてしまうのです。
恒久不滅のものなど何処にも無いのに、彼らはそれが受け入れられないのです。
二つ目の悟りである梵我一如の悟りでは、主体と客体に関する錯覚の剥落は一応あるものの、以前として、一体不可分であるとして捉えられた私(主体)である真我についても、対象(客体)である世界(あるいは、それを構成する原理)についても、それらが恒久不滅、絶対的なものとして捉えてしまうのです。
ここが彼らの悟りの誤り、即ち限界なのです。
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