私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

知の限界点と無我、非有非無、無根

2024年09月19日 15時03分15秒 | 悟り
◇知の限界点と無我、非有非無、無根◇


悟りの道中の後半で、おそらく必ず通過するポイントがあります。
それが無我を悟るポイントなんです。
但し、ここで言う無我とは、私が無いという意味ではなく、一切に実体が無いという意味です。

実は、この無我という概念には、同義な別の意味があります。
それが、非有非無、無根です。
非有非無とは、一切は有るとも無いとも言えないという意味です。
無根とは、一切に根拠は無いという意味です。

これらの無我、非有非無、無根は、わかるということ、知るということの限界を表すものとも言えます。
認識の正しさの原点ということもできます。
つまり、無我、非有非無、無根に沿った考えは合っている、正しい考えであり、そうでない考えは間違っている考えでなのです。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
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悟りの迷い道と無我

2024年09月19日 10時59分22秒 | 悟り
◇悟りの迷い道と無我◇


悟りの行程には、いくつかの袋小路のような迷い道があります。
その代表的なものが、私は無いという罠のような誤解によるものです。

明け渡しや禅の頓悟など、悟りの行程をそれなりの幅で一気に進むと、急激な意識変化や自我感覚の急激な希薄化が生じ、私という自我があたかも無くなったかのような錯覚が起こります。
そうすると、自我が無くなった、あるいは元から自我は無い等の誤った認識に陥りやすくなります。
そして、自身の自我が落ちた、悟ったと誤解してしまいます。

私という自我は、実体が無いということはハッキリしていますが、それが有るのか無いのかは断定不可能なのです。
自我に限らず、目の前の物質や頭の中に浮かんでくる考えも含めて、一切のことがらについて、有る無しは断定不可能なのです。
ですから、私が有ると言うのも間違いであり、私が無いというのも間違いなのです。
私が無いという間違った理解により悟るなんてことは、あり得ないのです。
私が無いと言っている方々は、悟っておらず、袋小路に迷い込んでいるのです。

しかし、私(慧空)がここで、そこは迷い道ですよといくら言っても彼らの耳には届きません。
嵌まり込み、間違い無いと掴んでしまっていますから。

最近、私は、それもまた長い行程の中で必要な経験なのかも知れないと考えるようになっています。
私自身もきっと、何度もそこに嵌まり込んだ経験を経ているのだろうと考えています。
おそらく、私は無いという迷い道は誰しもが嵌りやすい罠のようなポイントなんだと考えています。
そこを超えていくには、何度か嵌って身をもって学ぶしかないのだろうと。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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