Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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私が入院時に、お寺の御僧侶と間違われ、疑われていた時の事

2023年07月01日 08時43分37秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 長文、誠に失礼致します。 

 私は、去年の九月に、私の許諾の下、星ヶ丘病院に任意入院していた。
 その、当日の、私の、部屋が決まり、その部屋に通された時、真っ先に、看護婦さんに聞いた事は、東は、どちらの向きに有るのか、という一点だった。
 のちに、その時の看護婦さんは、私が、東方の方角に異常にこだわり、確認していた事を、昨日の事のように、私の退院の日に、思い出して、笑いながら、私に話してくれた。
 とにかく、私にとり、日蓮正宗信徒として、朝夕の勤行、おつとめ、御祈りの時に、朝の初座には、必ず、東方に向かって、諸天善神への、御祈願をせねばならない。その為に、改めて、最初に、聞いたのだった。
 その他にも、私が、お経が立派に、一人前に、一丁前に、唱えられるものだから、これは、お寺関係者、僧侶、坊主、坊さんの息子か、僧侶の親戚か何かなんじゃないのか、との、疑念を抱く者が多数に上り、だいぶ経ってから、私に直接、「やっぱり、あなたは、お寺さんの、息子さんか、なにか、なんですか?」と、男性の、私より数歳年上の人に、疑われ、おもむろに質問され、聞かれた。
 私は、とんでもない。私なんか、お寺の、風上にも置けない。お寺関係者じゃあ、決して、在りません、全く。それが証拠に、五、六年前までは、私のうちも、私自身も、新興宗教・創価学会の信者でした、と素直に告白すると、数日のうちには、私の、お寺の寺族、お寺関係者との、不遜な、私にとり、増長された、慢心に思われるような如きの、言説、噂の類は、見事、晴れた。
 そうやって、私自身も、その、病棟に於いて、かなりの、折伏活動をした。
 まず、眠れない、という人には、これを読み、唱えれば、きっと眠れるようになるよ、と言って、私の余分に余っていた、御経本を差し上げたりした。
 その方は、その後、観察してみたら、その御経本を、熱心に、ノートに書き写す、「写経」に、夜も昼も、取り組んでいた。しかし、私が、どんなに、宗祖日蓮大聖人様が、現代末法の世に於いては、お経の書写は、無意味だ、大聖人様御自身が、そう仰っている、といっても、その方は、そうしないと、御経文が、覚えられないんだ、有難い、それら、法華経が、素晴らしい御経文だと、自身、思っているんだ、と言われて、こちらも、根負けしてしまった。本当は、いけない事なんだけれども。
 私はその方に、お題目を、一心に唱える事、写経は、現代末世には、もう、時代遅れの事などを、常日頃から、御話ししていたが、写経の魅力に、その方は、ぞっこん、自分なりに、大好きなようだった。
 その他、日蓮大聖人様の御話しを八十代、七十代、六十代の方々に、直接、語って聞かせた。しかし、中には、進学校・磐城女子高出身者で、以前は、拝み屋の世話になっていた高齢女性の方を中心に、何故か、日蓮(大聖人様)という人は、その、鎌倉時代には、権力者側に就いていて、日蓮がその時代の権力を握り、宗教界の王者として君臨していて、いいようにあしらい、威張って、権勢を誇っていたのだ、との、妄想、妄説、事実誤認を、これは、このいわきの人だけじゃなく、何故か、白河市から来た八十代男性も、それに、同意、同調していて、全くの同意見であり、普通に考えれば、その間違いに気づくはずが、そんな単純な事も知らないのか、とあきれる程、これは、私がどんなに、その誤解を解こうとしたり、その時、安い電子辞書を持ち込んで来ており、その場で、大聖人の、辞書の項目を読み上げ、むしろ、大難に次ぐ大難に遭い、それも命に及ぶような難であり、鎌倉幕府には、いじめ抜かれ、迫害された一生だった、と幾ら私が言おうが、その人らは、私の言う事など、お構いなし、絶対に信じは決してしはしなかった。結局、彼女、彼らは、頭が、非常に硬く、自分が間違って信じた非常識な事が、それが真実だと、頑なに信じて譲らなかった。元々、どこか、おかしな人達だから、常識のへったくりも全くない。言うなれば、教養など全くない「自分教」のような、人ばかりだった。
 思うに、現代日本国では、お題目の宗教、間違った南無妙法蓮華経を唱える、日蓮正宗以外の宗教宗派、創価学会を代表として、顕正会、霊友会、立正佼成会、日蓮宗身延派、他、お題目を唱える邪宗教が、多数、この現在の日本を覆い、存立存在する。事実上、それら邪宗教による、ウソの南無妙法蓮華経、お題目の、虚栄の、仮の、広宣流布は、この日本国に於いては、それら邪教がのさばり、真実の日蓮系の宗派抜きの、詰まりは、正真の、嫡々の、日蓮大聖人の正統派の、日蓮正宗ではない、正宗以外の、ウソの形だけの広布は悲しくも、仮想的に、もう既に実現してしまっていたのかも知れない。(人口統計上の、宗教人口の上での)。
 それら、日蓮正宗以外の、大連立の、新興宗教にしろ、伝統宗教にしろ、日蓮系の諸教、邪宗教の盛んなるを以てして、それら、私が折伏していたのは、その時は高齢者が多かったが、それら、現代現在の宗教界の、日蓮系の邪宗教の、非常なる発達、跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)を、見た以上は、それが、鎌倉時代にまでさかのぼり、その繁栄がつづいていたのだろうと、ろくに日本史や、鎌倉時代などに、宗教史、比較宗教論などに、興味のない方によっては、そう受け取っていたのだなあ、と思った。誤解が誤解を生んだ。まさしく。
 日本一国に於いては、お題目の宗教が、宗教界を、席巻しているから、それはニセの題目なのだが、その高齢者たちは、事実誤認をしていた。一般常識、を何も知らず、エゴイズム、利己主義と、勝手な自己解釈判断に、間違った判断力で、誤解を胸にうずめたまま、それら方々は、自分の半生を自身に委ねていた。ただ、それだけの話だ。

 とにかく、この世は、誤解だらけである。その誤解を解くためには、自身、私も、相手にも、かなりの、誤解を解く労力、時間を要する。中には、それが、命の切れ目で、永遠に、誤解したままで、この世を去る方も、おそらく多数に存在し、上るのであろう。
 私は、それら、相手の間違い、誤解を解くのに、私の貴重な時間が、使われるのを、物惜しみ、けち臭く、慳貪の罪を招くような真似は、しない積りだ。誤解を解く、お手伝いだけは、なるたけ、してゆきたいと思っている。むしろ、有効な時間の使われ方だと、仏の御使いが出来ているのだからと、喜ぶ事にしようと、思い致している。
 しかし、法華経が釈尊により説かれた、その時代に、その説き初めに、「四十余年、未顕真実」(四十余年の間、未だ真実を顕わさなかった)の、言葉をその時、聞いていた五千人の聴衆が、爾前権教(釈尊が、法華経を説く前の、仮の教えを言う)を信じ込んで来た者共が、それに反意を示し、バカにして、その場の席を立って、正に立ち去って行ってしまった。これから、誰も聞いた事がない、大教説、釈尊が最終的に真に御説きになりたかった、もっともの、醍醐味、お悟り、極説中の極説、真実の大仏法を、有難い御説法を説き始めようとしたその刹那、その瞬間に、釈尊をバカにして、その場を去った、五千人もの聴衆がいた。
 何事も、真っ正直になって、素直になり、真に心を真っ更にして、心を真っ白にして、仏法、法というものは、聞かなければいけない。これは、その人の相性もあるかも知れないが、結論として、仏道修行は、好き嫌いじゃない。否が応でも、好きでも嫌いでもない、必須の、人類には、生きとし生ける者には、不可欠の、空気やそのうちの酸素ほかの様な、確実に必要な、それは、御教えと言えるのである。
 それらを、釈尊も、法華経、妙法蓮華経は、「難信難解」との、信じるのも、理解するのも、難しい、との、御経文の言葉にもあるが、これを、御本仏宗祖日蓮大聖人様が、わかりやすく、自分の御言葉で、説き直し、最大限、簡単明瞭に、五字七字の、コンパクトな「南無妙法蓮華経」に現した。
 とにかく、病院入院時代は、私の存在により、仏教的感化、折伏活動が、一か月間という、短い時間、期間に於いて、そこの病院に於いて、行なわれていた事は、事実である。下種は、種は下された。これら以外の反対者にも、毒鼓の縁(どっくのえん)にて、この世でもあの世でも、我が日蓮正宗に、結ばれたら良いなあ、と今更ながら、つくづく、強く、懐かしく思い返している。
以上。よしなに。wainai