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<この記事は漢検1級とほとんど関係ありません・・・ちょっとは関連していますが・・・>
●ブログ開設当初から作成しておいたカテゴリー「古代史」に書き込みを開始しています。
●私事の単なるメモ帳のようなものですので、興味のない方はスルーしてください。
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☆☆☆今年のテーマ:①漢検1級199点以上 ②好きな古代史の研究深化(古田説の研究) ③(非公開) ☆☆☆
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●“九州王朝”実在証明の白眉をなす古田さんの論点
<開皇20年(600年)の第一回遣使の際の「隋書・俀国伝」の記載内容>(この第一回は「日本書紀」には記載なし。「隋書・俀国伝」」に載っている。)
「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 ・・・(遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之)・・・王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利 無城郭 内官有十二等 一曰大 次小 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數 有軍尼一百二十人猶中国牧宰 八十戸置一伊尼翼如今里長也 十伊尼翼屬一軍尼・・・」
→「開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号す。・・・王の妻は雞弥(キミ)と称す。・・・」
(注1)俀王、姓の阿毎はアメ、多利思北孤は「タリシホコ」。阿輩雞弥はオホキミ。(古田さんの最近の説では「あが(吾が)君」と読めるとの事。通説では、「俀」は「倭」の誤りとする。多利思北孤も「北」は「比」の誤りとする。
(注2)開皇20年は、推古天皇8年にあたる。通説・教科書なども、この「多利思北孤」は推古天皇あるいは摂政の聖徳太子とする。また、「新唐書」では、用明天皇が多利思比孤であるとしている。ただし、「新唐書」は歴代(近畿)天皇家の名前に誤りが多く信頼性に欠けるところ大。
論点1:「王に妻あり」・・・多利思北孤(タリシヒコ)は男性であることは明らか。女性の推古天皇ではありえない。
論点2:(第2回遣使での有名な文言・・・「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)」から)聖徳太子は生涯、第2権力者。王者でも天子でもありえない。従って同一人ではありえない。
論点3:(記述は省略するが、俀国伝の中に俀国の風土として)「阿蘇山あり、故なくして火をふき・・・」とある。(なお、大和三山や瀬戸内の風景描写などは一切ない・・・隋の使者が近畿まで来たのなら当然これらの描写があってしかるべき・・・)。したがって、多利思北孤の本土は九州であって、近畿ではありえない。
●以上の論点①~③について、歴史学者や古代史学会などは、沈黙という名の“無視”を貫いてきているように見える。この論点発表もだいぶ前のものだが、寡聞か何も進展ないのか、これらの論点への反論なり誤謬指摘を見たり聞いたり読んだりしたことがない。
●一体、どうなっているんだろう・・・と、一人の国民・市民として、この国の真の歴史事実に(学校などで習ってきた・・・というか覚えさせられてきた内容)に深い疑問を持たざるを得ない・・・。
●本論点に基づく指摘や古田説は重大で、日本の歴史を根底からひっくり返す内容ではないか・・・真摯な論争や論議を望みたい。しかし、本当にこういう事実だとしたら、・・・特に明治以降の、万世一系のイデオロギーにもとづく天皇家一元史観やそれを支えてきた歴史学界や教育界などは驚天動地の出来事だろうな・・・沈黙もしくは無視ってのも気持ちはわからなくもないが(^^)しかし、学問ってのは真実を追求するものなんじゃないのう?
👍👍👍 🐒 👍👍👍 他にも、九州王朝実在を証明する“九州年号”の問題、俾弥呼(ひみか)・壹与(いちよ)が中国史書には出てきて日本の記紀には一切出てこないこと(「神功皇后」のところに一切記載されていて神功皇后のことと思わせる記述内容になっている)、「いわゆる“倭の五王”」問題・・・九州王朝(倭国)の中国南朝への貢献の事実・「倭王・武の上表分」の内容などなど・・・実在証明の根拠・論点はかなり多いが、それらに対しても否定されたということを聞いたことも読んだこともない👍👍👍
<この記事は漢検1級とほとんど関係ありません・・・ちょっとは関連していますが・・・>
●ブログ開設当初から作成しておいたカテゴリー「古代史」に書き込みを開始しています。
●私事の単なるメモ帳のようなものですので、興味のない方はスルーしてください。
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☆☆☆今年のテーマ:①漢検1級199点以上 ②好きな古代史の研究深化(古田説の研究) ③(非公開) ☆☆☆
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●“九州王朝”実在証明の白眉をなす古田さんの論点
<開皇20年(600年)の第一回遣使の際の「隋書・俀国伝」の記載内容>(この第一回は「日本書紀」には記載なし。「隋書・俀国伝」」に載っている。)
「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 ・・・(遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之)・・・王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利 無城郭 内官有十二等 一曰大 次小 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數 有軍尼一百二十人猶中国牧宰 八十戸置一伊尼翼如今里長也 十伊尼翼屬一軍尼・・・」
→「開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号す。・・・王の妻は雞弥(キミ)と称す。・・・」
(注1)俀王、姓の阿毎はアメ、多利思北孤は「タリシホコ」。阿輩雞弥はオホキミ。(古田さんの最近の説では「あが(吾が)君」と読めるとの事。通説では、「俀」は「倭」の誤りとする。多利思北孤も「北」は「比」の誤りとする。
(注2)開皇20年は、推古天皇8年にあたる。通説・教科書なども、この「多利思北孤」は推古天皇あるいは摂政の聖徳太子とする。また、「新唐書」では、用明天皇が多利思比孤であるとしている。ただし、「新唐書」は歴代(近畿)天皇家の名前に誤りが多く信頼性に欠けるところ大。
論点1:「王に妻あり」・・・多利思北孤(タリシヒコ)は男性であることは明らか。女性の推古天皇ではありえない。
論点2:(第2回遣使での有名な文言・・・「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)」から)聖徳太子は生涯、第2権力者。王者でも天子でもありえない。従って同一人ではありえない。
論点3:(記述は省略するが、俀国伝の中に俀国の風土として)「阿蘇山あり、故なくして火をふき・・・」とある。(なお、大和三山や瀬戸内の風景描写などは一切ない・・・隋の使者が近畿まで来たのなら当然これらの描写があってしかるべき・・・)。したがって、多利思北孤の本土は九州であって、近畿ではありえない。
●以上の論点①~③について、歴史学者や古代史学会などは、沈黙という名の“無視”を貫いてきているように見える。この論点発表もだいぶ前のものだが、寡聞か何も進展ないのか、これらの論点への反論なり誤謬指摘を見たり聞いたり読んだりしたことがない。
●一体、どうなっているんだろう・・・と、一人の国民・市民として、この国の真の歴史事実に(学校などで習ってきた・・・というか覚えさせられてきた内容)に深い疑問を持たざるを得ない・・・。
●本論点に基づく指摘や古田説は重大で、日本の歴史を根底からひっくり返す内容ではないか・・・真摯な論争や論議を望みたい。しかし、本当にこういう事実だとしたら、・・・特に明治以降の、万世一系のイデオロギーにもとづく天皇家一元史観やそれを支えてきた歴史学界や教育界などは驚天動地の出来事だろうな・・・沈黙もしくは無視ってのも気持ちはわからなくもないが(^^)しかし、学問ってのは真実を追求するものなんじゃないのう?
👍👍👍 🐒 👍👍👍 他にも、九州王朝実在を証明する“九州年号”の問題、俾弥呼(ひみか)・壹与(いちよ)が中国史書には出てきて日本の記紀には一切出てこないこと(「神功皇后」のところに一切記載されていて神功皇后のことと思わせる記述内容になっている)、「いわゆる“倭の五王”」問題・・・九州王朝(倭国)の中国南朝への貢献の事実・「倭王・武の上表分」の内容などなど・・・実在証明の根拠・論点はかなり多いが、それらに対しても否定されたということを聞いたことも読んだこともない👍👍👍