近世ブラジルの食-中南米の植民地の変遷(6)
ブラジルの面積は世界5位の広さを誇り、総人口も2億人を越えて世界6位となっており、ラテンアメリカでは最大の領土と人口を擁する大国です。
1600年にポルトガル人のカブラルがブラジルに到達して以降、1822年に独立するまで、ブラジルはポルトガルの植民地でした。ポルトガルの植民地になると、原住民の多くが重労働のために逃げ出したり、病気で亡くなったりしたため、労働力が著しく不足しました。そこでポルトガルは西アフリカから大勢の黒人を運んできて、奴隷として働かせました。
こうして、ブラジルでは原住民とポルトガル人、そして黒人が生活することとなり、近世のブラジルの食文化も、三者の食文化が融合することで作られて行ったのです。
今回は、このような近世ブラジルの食について見て行きます。
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アフリカを出発した人類(ホモサピエンス)は、中東・アジアを横断後、ベーリング陸峡を渡り、北アメリカ大陸を南下して、今から約1万1千年前にブラジルに到達したと考えられている。
ブラジルにやってきた人類は、長い年月をかけて、安全に食べられる植物や栄養価の高い動物を見つけて行ったと考えられている。その中の代表的な食材がブラジル西部を原産地とするキャッサバで、約1万年前に栽培が開始されたと推測されている。そして、ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやって来た時には、ブラジルなどの南アメリカ北部に加えて、中央アメリカやカリブ海の島々でも主食としてよく食べられていた。
ブラジルの先住民はキャッサバ以外に、カカオ豆、カシューナッツ、パイナップル、パッションフルーツ、ガラナ、マテ茶、グァバなどを食用としていた。なお、トウモロコシは優れた穀物であったが、高温多湿のブラジルではキャッサバの方が適していたため、主食にはならなかった。
ブラジルを植民地にしたポルトガル人は、いろいろな作物を持ちこんで栽培を始めた。その結果、タマネギやニンニク、サトウキビなどの栽培には成功したが、コムギやオオムギなどの主食となるような作物は気候の違いから育たなかった。そこで、原住民と同じようにキャッサバを食べるようになったという。
こうして、現在でもブラジルでは、小麦粉の代用品としてキャッサバ粉が広く使われている。例えば、キャッサバ粉は、パンやクッキー、ビスケット、あるいはトルティーヤなどの材料として使われる。また、キャッサバ粉をタマネギやベーコンなどとバターで炒めた「ファロファ」が料理の付け合わせとして日常的によく食べられている。
ファロファ(Ryan Joyによるflickrからの画像)
また、キャッサバは栽培が容易なため、ポルトガル人によってアフリカなどに持ちこまれて栽培され、奴隷を運ぶ輸送船内の食糧としても利用された。
ポルトガル人はウシやブタ、ニワトリなどの家畜や、ソーセージ・バターなどの肉製品・乳製品の作り方もブラジルに持ちこんだ。また、ポルトガル人の大好物のタラもブラジル料理に導入され、ブラジルの定番料理の一つである「ボリーニョ・デ・バカリャウ(ブラジル風タラのコロッケ)」などとして現代でも広く食べられている。
次は、アフリカ人が持ち込んだ食文化だ。
西アフリカの気候はヨーロッパに比べてブラジルの気候に近いため、黒人奴隷は祖国の食べ物や食文化をブラジルに適応させることが容易だった。こうして、アフリカからパーム油を採るためのアブラヤシやココナッツができるココヤシ、バナナ、コメ、オクラ、黒目豆(ササゲ)などがブラジルに持ちこまれた。
ブラジルの代表的な料理で、黒人奴隷の料理が始まりとされるものに「フェジョアーダ」がある。これは、料理名の由来となったフェイジャオン(インゲンマメ)と豚の脂身、干し肉または燻製肉、豚の内蔵などを煮込んだ料理だ。
フェジョアーダ(Gilmar KoizumiによるPixabayからの画像)
フェジョアーダは一般的に、黒人奴隷たちが残り物のくず肉を豆と一緒に煮たのが始まりとされることが多い。しかし最近では、この説に異議を唱える学者もいて、彼らによるとフェジョアーダの起源はヨーロッパからの入植者という。手に入りやすいマメと肉で簡単に作れたため、重宝されたということだ。
起源はともかく、今ではフェジョアーダはブラジル全土で楽しまれている真のブラジル国民食となっている。