食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

武士の時代の始まりと食の進化

2021-01-02 17:18:04 | 第三章 中世の食の革命
3・6 中世日本の食
武士の時代の始まりと食の進化-中世日本の食(1)
今回から中世日本の食について見て行きます。

日本の中世がいつからいつまでを指すのかは人によって少し異なっているようですが、ここでは近年の教科書などで中世とされている、平安時代末期ごろから鎌倉時代と室町時代を経て、太閤検地の手前までを扱うことにします。

今回は中世日本の始まりから鎌倉時代の終わりまでの、社会と食の変化について全体像を概観していきたいと思います。

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日本の中世の最大の出来事としては、武家政権によるに支配の始まりを挙げることができる。それまでは天皇の政権である朝廷が全国を支配していたが、力をつけた武士が政治権力を掌握したのである。

武士の始まりには諸説があって決着が着いていないが、武装化した地方の豪族が朝廷・貴族の護衛や地方の治安維持の役割を与えられることで勢力を拡大したと言われている。地方では平将門や藤原純友のように反乱(承平・天慶の乱:935~941年)を起こすものがあったが、これらの平定に平氏と源氏が活躍したため源平二氏が武士の中心となって行った。

武士の勢力拡大の追い風になったのが「荘園公領制」と呼ばれる土地制度だ。荘園とは貴族・寺社・武士が私有した土地のことで、公領は朝廷が支配した土地のことである。荘園と公領の管理には複雑な利害関係が絡み合っており、これらをめぐって紛争が絶えなかったため武士が活躍することになったのである。このような中で平氏は西国で、源氏は主に東国でそれぞれ勢力を伸ばした。

平安末期には上皇(退位した天皇)による院政が行われた。この時期には上皇たちが仏教を篤く信仰したため大寺院の発言力が高まり、延暦寺や興福寺などの僧侶たちが朝廷に強訴(集団で朝廷に対して行なった要求)を行ったりした。これに対して上皇は源平二氏に警護を任せたため、源氏と平氏はさらに力を伸ばして行った。

源氏と平氏が政権内での確固たる力を示すことになったのが「保元の乱(1156年)」である。この乱は皇室と摂関家の内部対立から起きた争いで、源平二氏もそれぞれ2つに分裂して戦い、源義朝と平清盛の力によって後白河天皇・藤原忠道が勝利した。この乱によって朝廷内の争いも武家の力無しでは解決できないことが明らかになったのである。

さらに1159年には後白河上皇の近臣同士の争いから「平治の乱」が起きる。この乱では平清盛が源義朝を倒して平氏が武家の棟梁の地位に立った。平氏は多くの荘園や知行国を得るとともに、一族の多数の者が高位高官につき、栄華を極めることになる。

ところが、1180年に平清盛が孫を安徳天皇としたところ、後白河法皇の皇子の以仁王(もちひとおう)が源氏を味方に付けて平氏打倒の兵を挙げた。こうして始まった源平合戦の結果、平氏は1185年に壇ノ浦の戦いで滅亡した。

源氏の棟梁の頼朝は朝廷に、それぞれの国には守護を各地の荘園と公領には地頭を置くことを認めさせ、御家人を配置した。その結果、諸国は朝廷が任命する国司・荘園領主と、幕府が任命する守護・地頭による二重支配が行われるようになった。1192年に後白河法皇が死去すると、頼朝は征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府が誕生した。


源頼朝

頼朝の死後は、頼朝の妻政子の父である北条時政が「執権」となって実権を握った。それ以降は北条氏が執権の座を独占することになる。

1221年に後鳥羽上皇は幕府打倒の兵を挙げたが鎮圧される(承久の乱)。乱後には、朝廷を監視する六波羅探題が京都に置かれ、上皇に加担した貴族と武士の土地を取り上げて新たな地頭を任命した。こうして幕府による全国支配がほぼ達成された。

さて、鎌倉時代は日本の「中世の農業革命」と呼べる農業技術の発展が見られた時期だ。鉄製の丈夫な農具をウシやウマに引かせることで農地を深く耕すことができるようになり、生産性が著しく向上したのだ(この点はヨーロッパにおける中世の農業革命によく似ている)。また、同じ耕地で一年のうちに2種類の作物を栽培する「二毛作」も始まった。

このような農業生産力の向上によって経済活動も活発になった。各地で市が開かれ、さまざまな物品の商取引が行われるようになったのである。

食事の面でも大きな革新が見られたのが鎌倉時代であった。それまでの日本には冷めた料理しかなかったが、次第に暖かい料理が作られるようになるのである。また、現代の日本人も飲んでいる「味噌汁」が誕生したのも鎌倉時代だ。「抹茶」もこの時代に中国から伝えられる。


北条氏による執権政治は比較的安定していたが、1274年と1281年の元寇(蒙古襲来)によって揺らぎ始める。御家人たちは「てつはう」と呼ばれる火薬を利用した武器や毒矢の攻撃に苦戦しながらも蒙古軍を追い払ったが、大きな出費の割に十分な恩賞が得られずに困窮して行った。

また、その頃には北条執権家による専制政治が進んでおり、他の武士たちの不満も蓄積していた。さらに、西国を中心に幕府に属さない「悪党」と呼ばれる武士たちの勢力も大きくなっていた。

このような状況で討幕を試みたのが後醍醐天皇である。後醍醐天皇は楠木正成、足利尊氏、新田義貞らの協力を得て、1333年に討幕を成功させた。こうして北条氏は滅亡し、鎌倉時代は幕を閉じるのである。


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