ジンの光と影-イギリスの産業革命と食(6)
「ジン(gin)」はカクテルによく使われる蒸留酒です。ジンを使ったカクテルには「ジントニック」「ホワイトレディ」「マティーニ」「ギムレット」などたくさんあります。ちなみに我が家では、時々ホワイトレディを飲みます。
近年は世界的なジンブームと言われていて、日本でも小規模な蒸留所などが造る「クラフトジン」が人気です。
クラフトジンとは材料などにこだわって造った高級ジンのことです。「ジンは自由」と言われるように、ジンの定義は「ジュニパーベリーの風味を主とする蒸留酒」となっているだけで、ジュニパーベリー以外の材料に縛りはありません。そのため、ボタニカル(茶や桜などの植物)、ハーブ、スパイス、フルーツなどのさまざまな材料を使うことで、造り手の個性あふれるジンを醸造することができるのです。
さて、ジンの本場はイギリスです。しかし、イギリスのジンの歴史には深い闇も存在しています。今回は、このような影の部分を含めて、ジンの歴史を見て行きたいと思います。
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ジンに入っているジュニパーベリーは、ジュニパー(和名:セイヨウネズ (西洋杜松))と呼ばれる針葉樹にできる果実(球果)で、形がベリーに似ているからこう呼ばれる。
ジュニパーの仲間は北半球の寒い地域に約60種が分布しており、このうちの特定のものの果実や葉がジンに入れられたり、香辛料として利用されたりしている。例えば、スカンジナビア半島では肉料理の風味付けに使用されているし、スウェーデンではクリスマスシーズンに販売される清涼飲料水に入れられているという。また、トルコでは伝統的な薬としても利用されている。さらにヨーロッパでは、家畜の肉質の改善などのためにエサに混ぜられて与えられることもある。
ジュニパーベリーは古代社会でもよく使用されていたようだ。古代エジプトのいくつかの墓からジュニパーベリーが発見されているし、古代ギリシアではジュニパーベリーが選手の体力を増強すると信じられて、オリンピック競技でよく使用されていたと伝えられている。また、古代 ローマでは、高価なコショウの代わりに安価なジュニパーベリーを料理に使用することもあったという。
中世ヨーロッパでは、ジュニパーベリーは咳や頭痛・胃痛・痙攣などをおさめる薬として利用されていた。また、ハーブや香辛料を漬け込んだワインを薬として飲むことは古代から行われてきたことだが、ジュニパーベリーもワインに入れられて飲まれていたようだ。
さらに、ジュニパーベリーには空気を清浄化する効果もあると考えられ、14世紀にペストが流行した時には、医師は大きなくちばしの形をしたペストマスクにジュニパーベリーなどのハーブや香辛料を入れて患者の治療にあたった。
ペストマスク(Siggy NowakによるPixabayからの画像)
14世紀になって蒸留器がイスラムからヨーロッパに伝えられると、南イタリアの修道院でジュニパーベリー入りのワインから蒸留酒が造られるようになる。これがジンのはじまりと考えられている。
その当時、蒸留酒は生命力を高める薬とみなされて、「生命の水(ラテン語:aqua vitae)」と呼ばれていた。ここに、ジュニパーベリーなどの薬効のある成分を加えれば、より強力な薬が誕生すると考えたのだろう。
なお、医師のフランシスカス・シルヴィウスが17世紀半ばにジンを発明したという話が一部で信じられているが、16世紀にはすでにジンが飲まれていたので、これは誤りと考えられている。
17世紀半ばにはオランダなどで、オオムギやライムギから作った酒にジュニパーベリーなどを加えてから蒸留したものが「ジェネバー(jenever)」と呼ばれて、薬局で販売されるようになった。
一方、イギリスでは1685年即位したジェームズ2世(在位:1685~1688年)が、イギリスをプロテスタントからカトリックに戻す動きを強めていた。これに対してイギリス議会がジェームズ2世の娘のメアリーに助けを求める。と言うのも、メアリーはプロテスタントで、同じくプロテスタントでオランダの統治者だったオレンジ公ウィリアムに嫁いでいたからだ。
1688年にウィリアムが兵を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世はカトリック国のフランスに亡命した。そして、メアリーとウィリアムは、メアリー2世とウィリアム3世としてイギリスの共同統治を行うようになる。これが名誉革命と呼ばれる出来事だ。
その後ウィリアム2世のとった政策によってイギリスでジンが大量に飲まれるようになる。
彼はカトリック国のフランスを経済的に追い詰めるために、フランスのブランデーやワインなどに重税をかけるとともに、ジンの無許可の製造・販売を認めたのだ。エール(ビール)などには高い税金がかけられ、販売には免許が必要だったため、ジンはどこでも手に入る最も安い酒となった。その結果、イギリスでは、1695年から1735年にかけて各地に何千ものジンショップが誕生した。
もともとイギリスでは清潔な飲料水が不足していたため、エール(ビール)が水代わりに飲まれていたが、特に労働者が住んでいる不衛生な地域では主にジンが飲まれるようになった。こうして下流層を中心にジンの飲酒量が大幅に増加したのである。
ちょうどその頃は、産業革命によって都市に労働者が増えてきた頃であり、きつい仕事の憂さ晴らしにジンを飲むことも多くなった。また、仕事に出かけるのに邪魔になる子供や赤ん坊を寝かしつけるために、ジンを飲ませることもよく行われていたようだ(当時は飲酒の年齢制限はなかった)。
具合が悪いことに、蒸留酒はアルコール度数が高いので中毒になりやすい。果せるかな、イギリスでは下流層を中心に多くの老若男女がジン中毒に陥り、酒による病気や犯罪が多発するようになる。
このような悲惨な状況を物語る資料として、1751年にウィリアム・ホガースが発表した版画『ビール通りとジン横丁(Beer Street and Gin Lane)』が有名だ。
「ビール通り」の版画では、ビールを飲んで幸せそうな人々を描いている。一方「ジン横丁」では、ジンに酔った母親が赤ん坊を階段の脇に落としたり、酩酊した男が蛇腹で自分の頭を殴ったり、梅毒の腫れがたくさんある男がいたりなど、醜悪な場面ばかりだ。このような状況に関係して、今日でも英語ではジンのことを「母親の破滅(mother's ruin)」と呼ぶ場合がある。
ビール通り
ジン横丁
政府は問題を解決するために1736年には小売業者に高い税金を課す法律を施行したが、住民の暴動につながり、多くの醸造所が襲撃される事態となった。その後もいざこざが続いたが、1751年になってやっと、蒸留業者は許可を受けた小売業者のみにジンを販売するように定められ、事態は沈静化に向かうことになる。
18世紀後半になると、品質の悪いジンを造る醸造所は淘汰され、高品質のジンを造る新しい醸造会社が設立されて行った。その中には、ビーフィーター(Beefeater)やタンカレー(Tanqueray)など、現在でもブランド名に名を留める会社も多い。
そして1830年に、ジンは革新の時を迎える。この年に、元税検査官で発明家のエネアス・コフィーが改良型の連続式蒸留器を開発したのだ。これを用いて蒸留したジンは、嫌な風味の原因となっていた夾雑物がきれいに取り除かれて、これまでよりもはるかにすっきりとした飲み口になったのだ。イギリスが誇る「ドライジン」の誕生である。
ドライジンは、イギリス海軍がマラリアの蔓延する植民地に赴くときの必需品となり、現地ではマラリア予防薬のキニーネとドライジンの「カクテル」が作られて飲まれたという。ドライジンがキニーネの苦みを和らげて飲みやすくなるからだ。
こうしてドライジンは海軍御用達の酒となった。第二次世界大戦のときにヒトラーがドライジンの醸造所があるプリマスを爆撃した時には、兵士たちは涙を流して怒り狂ったと言われている。