シャンパーニュとブルゴーニュのワインの戦い-フランスの大国化と食の革命(9)
フランスのワインの二大産地と言えば、パリの南東方向にある「ブルゴーニュ」と南西方向にある「ボルドー」です。また、発砲ワインの「シャンパン(シャンパーニュ)」で知られる「シャンパーニュ」も有名な産地です。
近世フランスのヴェルサイユ宮殿では、ブルゴーニュのワインとシャンパーニュのワインの争いが繰り広げられます。この勝負ではブルゴーニュが勝利しますが、敗れたシャンパーニュは復活を遂げるために新しいワインであった発泡性のワインを生み出しました。これが「シャンパン(シャンパーニュ)」です。
今回は、このようなブルゴーニュとシャンパーニュのワインの歴史を見て行きます。
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ブルゴーニュとシャンパーニュの歴史を見て行く前に、現代の両者のワインについて簡単にまとめておこう。
【ブルゴーニュのワイン】
・ブルゴーニュは、北からシャブリ地区、コート=ドール(コート・ド・ニュイ地区とコート・ド・ボーヌ地区)、ボージョレ地区に分かれている。
・基本的に、ブルゴーニュの白ワインはシャルドネという白ブドウだけで造り、赤ワインはピノ・ノワールという黒ブドウだけで造る。ただし、ボージョレ地区ではガメイという黒ブドウから赤ワインが造られている。
・ブルゴーニュは内陸で、夏は暑く、冬は寒い。また、天候が激しく変わるとともに、土壌と天候が地域によってかなり異なっている。その結果、畑ごとにブドウの品質が違ってくるため、畑ごとに格付けがされている。また、一つの畑に複数の所有者がいる場合が多い。
・最高級のワインが赤ワインの「ロマネ・コンティ」で、1本が数百万円以上で売買されている。
【シャンパーニュのワイン(シャンパン)】
・シャンパーニュはフランスのブドウ栽培の北限に位置していて、ランスと言う町が中心となっている。
・シャンパン(シャンパーニュ)はシャンパーニュ地方の発泡性のワインだけに許されている名称であり、手摘みされたブドウから決められた方法で造られる。
・シャンパンは、ピノ・ノワール、シャルドネ、ムニエというブドウから造った通常のワインを混合して瓶詰めし、さらに糖分と酵母を加えて瓶の中で二次発酵をさせることで造られる。この二次発酵で発生する炭酸ガスがワインの中に溶け込むことで、開けた時に泡が出るようになる。
・二次発酵の時に発生する酵母のカス(澱)は、瓶を逆さにして口元に集め、その部分を急速に凍らせてから瓶を上に向けて取り除く。そして、成分を整えてからコルクで栓をして出来上がり。
・通常のシャンパンは何年間かストックしたワインを混合して造っているため、造った「年号」は瓶に表示されない。ただし「ドン・ペリニョン」は、出来の良い年のブドウで造ったワインだけで醸造されるため「年号」が表示される。そのため、値段が高くなる。
それでは歴史の話だ。
第三章中世の食の革命「シトー派修道会とブルゴーニュワイン」でお話したように、中世のブルゴーニュにはシトー派などの多くの修道院が建てられ、修道士たちがブドウ栽培とワイン醸造を行った。この頃の修道士たちは畑ごとのブドウの出来の違いにすでに気づいていたらしい。
ブルゴーニュは11世紀からフランス王カペー家の傍系ブルゴーニュ家が統治していたが、直系の後継者が絶えたため、1363年にフランス国王シャルル5世(ヴァロワ家)の弟フィリップがブルゴーニュ公爵を引き継いだ。フィリップは、ワイン用のブドウとしてガメイの使用を禁じ、品質の良いピノ・ノワールだけを栽培するように命じたと伝えられている。
その後、裕福なフランドル地方などを取り込むことで、ブルゴーニュ公国はフランス王家をしのぐほどの繁栄を極めるようになる。その結果、催される晩餐会は最高級のものになり、ワインもより優れたものが求められるようになった。こうしてブルゴーニュのワインは、公国の要望に合った高品質ものが作られるようになって行った。
ブルゴーニュ公国は百年戦争(英仏戦争;1339~1453年)ではイングランドと結び、フランス王家とは対立する。その頃はフランスの一部と言うよりも、独立国のような存在だったのだ。しかし、ブルゴーニュ公国を受け継いだ神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、1529年のフランスとの講和の際にブルゴーニュ公国の領地をフランスに譲渡したため、これ以降はフランス領となった。
一方のシャンパーニュは、フランスにおけるワインの始まりの地とされているところだ。第三章の「ワインとフランク王国」でお話したが、フランスの前身であるフランク王国を興したクロヴィス(466年頃~511年、在位:481~511年)がランスで行った戴冠式でワインに強い霊感を覚えたと伝えられている。そして、クロヴィスと臣下たちは、それ以降は大のワイン好きになったのである。
ランスの大聖堂は歴代のフランス国王が戴冠式を行う場となったため、その際に使用されるワインも優れたものが造られるようになった。また、シャンパーニュ地方では中世にはヨーロッパで最大と言われている市が開かれており、ワインも重要な商品の一つだったため、商業的な目的でも盛んにワインの醸造が行われていた。
ブルボン朝を開いたアンリ4世(在位:1589~1610年)が即位するまでは、フランス宮廷では近場のロワール川流域で造られたワインが良く飲まれていた。一方、アンリ4世はシャンパーニュのワインが大好きだった。その結果、その後のフランス宮廷では、ロワールのワインはあまり飲まれなくなり、シャンパーニュのワインと、評判の高かったブルゴーニュのワインを飲むようになって行った。なお、当時は、両者ともにピノ・ノワールを使って赤ワインを造っており、品質にも大きな違いが無かったと言われている。
ところが、ルイ14世(在位:1643~1715年)の代になって、シャンパーニュのワインとブルゴーニュのワインのどちらが優れているかと言う大論争が巻き起こった。貴族や聖職者、医者、学者など多くの人を巻き込んだ論争の結果、ブルゴーニュのワインが勝利する。一説では、健康を害していたルイ14世に医者がブルゴーニュのワインの方が健康に良いと勧めたからだと言われている。こうしてフランス宮廷では、主にブルゴーニュのワインを飲むようになった。
少し時代をさかのぼるが、16世紀頃になると、修道院のブドウ畑は修道士自身が耕作するのをやめて、農家に委託するようになっていた。例えば1584年には、現在のロマネ・コンティの畑について、最も高値を付けた者に耕作を請け負わせる権利を永久に与えるという広告が出されたらしい。
このロマネ・コンティの畑は、ルイ15世(在位:1715~1774年)の代になって売りに出されることになった。それを耳にしたルイ15世の公妾のポンパドゥール夫人が何とか手に入れようとしたのだが、結局コンティ公(ルイ・フランソワ1世)が争奪戦を制した。このコンティ公の名前と、ローマ時代からこの地でブドウを造ってきたということから「ロマネ・コンティ」と名付けられたのである。
一方、ブルゴーニュとの戦いに敗れたシャンパーニュは、発泡性のワインを売り出す方向に舵を切った。ただし、18世紀末でもシャンパーニュのワインのうちシャンパンが占めたのは10%程度だったと言われている。一番の問題が炭酸ガスの圧力で瓶が破裂してしまうことで、これが解決されるのは1840年のことだ。
しかし、生産数が少ないながらもシャンパンは上流階級にたいへん人気だったようで、ヴェルサイユ宮殿ではよく飲まれていたという。特にポンパドゥール夫人のお気に入りだったようで、「酔っても女性の美しさを損なわないのはシャンパンだけ!」と言ったと伝えられている。また、シャンパンに合う料理がいくつも考案された。
ところで、シャンパンの製法(瓶内二次発酵)を生み出したのは修道士のドン・ペリニョン(1638~1715年)だったという話があるが、これは正しくないと考えられている。最初の発泡性のワインの醸造は17世紀にイギリスで始まったという説が有力で、この醸造にたずさわっていたフランス人がシャンパーニュ地方に製法を伝えたとされる。
ただし、ドン・ペリニョンがシャンパンの品質向上に貢献したことは間違いなく、異なるブドウから造ったワインを混合する方法やコルク栓などを考案したと言われている。このため彼の名が最高級のシャンパンに付けられたのだ。