【ある夏の終わりに】(2)
「お茶をと思ったのだけれど、この方が良いと思って」と言うとその人は飲み物の入ったコップと、メロンを置いた皿を滝子の前へ出した。
「失礼ですが、何故私の名前を知っていられるのですか、たぶん私はお会いするのは初めてだと思いますけど。」
彼女がそう尋ねると、その人はニコッと笑顔を見せた。そして
「滝子さんというお名前はいつも五条さんに聞いていました。ほんとう言うとあなたが滝子さんだとはっきり確信がなかったの。でもやっぱりそうだったわね。」と言った。
「実はね、私は五条さんの絵を時々拝見させてもらっていたの。そのたびにあの方は(滝子だったら何て言うだろう)などといつも言っていたの。
どんな人と聞いたのだけれど教えてくれなかったわ。去年父に、五条さんが連れていらした女の人の話を聞いて、滝子さん、つまりあなただと思ったの。」
その人は、時々笑顔をチラッと滝子に移しながら話を続けた。
その純情そのもののような顔を見ていると、何か張り詰めたような滝子の心は少しずつ和らいできたようだった。
二人はお互いのことを話し合った。
それで滝子はその人が菊代という名で、五条を好いていた人だという事を知った。
菊代は菊代で彼女が五条の姪だということで少しほっとしたらしくさらに笑顔となった。
そんな事で住職が現れるまでに二人はすっかりうちとけてしまった。
住職は手に大きな額絵を四枚持って二人のいる書院に入ってきた。
「どうも待たせてすみません。なかなか重いもので…。でも良かった、その間にすっかり菊代と気が合ったものと見える。」
その絵は相当重いらしく彼は壁にそれを立てかけた。
滝子にはすぐにそれが五条のものだと分かった。
「五条さんの絵です。この寺の春夏秋冬を書いて下さったのですが、残念なことに夏の絵が未完成なのです。」
滝子と菊代はその絵に目をやった。春・秋・冬、それはどれも美しいこの寺の風景だった。
春は花に包まれ、秋は紅葉に、そして冬はまっ白な雪の中に、その姿を誇っていた。
滝子は十九世紀に栄えた絵画が好きだった。
そしてどことなくそれを思わせる五条の絵も同じように好きだった。
「ねえお父さん、滝子さんはね、五条さんの姪なんですって。今高校三年生なのよ。」
菊代は、二人の前に座った彼女の父にそう言った。
「うん、わしも今聞いたところだ。何しろあの人は親戚関係が全然なかったようだったから、てっきり五条さんに絵でも習っていた人かと思った。」
滝子は叔父が彼女の父と母親を異にする兄弟だという事や、叔父の母が勝気な人で、彼を父の家に入れなかった事などを二人に話した。
住職も菊代もそのような事をまるで知らなかった様子であった。
「私が叔父を知ったのは、美術館でした。私が中学三年生の時です。ちょうど叔父が大学四年生の時です。最初叔父の方が話しかけてきたのです。
叔父は私のことをいろいろと知っていました。私が度々絵を見に行くことも。そして姪だという事まで・・・。」
滝子は初対面も同様な彼らに向って何の抵抗も感じずに、話すことができた。
「あなたはよほど絵が好きらしいわね。」と菊代が言った。
「ええ好きです。でも下手な横好きかもしれません。高校へ入ってからずっと叔父について絵の勉強をしましたが、さっぱりです。」
「私も一度五条さんに習ったのだけれど、すぐやめてしまったわ。滝子さんは続けている。その点偉いもの、きっと上手に決まっているわ。」
菊代は一人でそう決めてしまったように得意そうな顔をしてみせた。住職の前で滝子を独り占めした感じであった。
「菊代に絵は向いていない。でもいいですね若い時は、芸術だのなんのって夢中でなるものがありますから、現実の世から離れて。」とそこへ住職が口を入れた。
すると菊代はちょっとふくれたような表情をわざとらしく見せて
「あらお父さんたら・・。お父さんだって結構植木に夢中ではありません。
それに芸術だって現実との戦いはありますよ。もしかしたら芸術の方が激しいかもしれないわ。」と言った。
住職は大きな声で笑った。そして
「全く幾つになっても親いびりは忘れないらしい。」と言った。
滝子はそんな二人を見ていて、今まで忘れかけていた淋しさがふと心をかすめた。
「なんと理想的な親子だろう。」と彼女は思った。
せめて彼女の父がこの何分の幾つかでもそのようだったらと思った。」
「それにしても五条さんは死ななくても良かったのに。」と住職がふいにいった。
すると「自殺なんて…。」と菊代が言った。
先ほどの明るさが少しずつ萎んでいくようだった。
親子は五条の死を真剣に考えているらしかった。滝子にもそれが分かった。
人付き合いの嫌いだった叔父も、反面に真剣に考えてくれる友を得ていたのである。
叔父がこの寺を好きだった理由はここにもあるのだと思った。
「私もはじめは信じられませんでした。あの夏、私がここへ連れてきてもらって、家へ帰る時、叔父も東京へ帰るはずだったのに、留まるというのです。
絵を書きたいからというのが理由でしたので、私もすっかり賛成しちゃって。それに、あの時の叔父の顔は普段と違って晴れ晴れとした感じだったのです。」
滝子は話しているうちに次第に悲しくなってきた。涙が出そうになったが、一心にこらえていた。
「それには裏があるという事にあの時気がつきさえすれば・・・。」
「やっぱり無理だったでしょう。私も前の日に会っていたのですから。それにあなたは十七歳という若さだ。」
そう言った住職の顔には、先ほど滝子に見せた時と同じように失敗したという表情が現れてきた。
そして「どうも私はあなたや菊代を悲しがらせる話ばかり始めてしまっていけない。」と言って、
「どうですか、二人して五条さんの墓参りをしたら。」と滝子と菊代を、五条の墓へと向けた。(3)へ続く・・・。
この回はこの曲をお借りしました。