マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

活動縮小の判断

2020-03-12 00:01:00 | 教会の風景

新型コロナウィルスの影響は、教会の活動にも及んでいます。

現在、私たちの教会でも日曜午前の礼拝のみに限定しています。日曜午後のプログラムや平日の祈り会を中止にしています。小規模教会なりの活動縮小です。

それにしても、影響がさまざまな分野に及んでいます。注意深く、落ち着いて日常生活を送りながら、速やかな終息を祈るばかりです。



さて、礼拝説教のあらすじ(旧約聖書からの講解説教)も掲載しておきます。しばらく掲載していなかったので、今回は、2019年11月の分です。


2019年11月 Ⅰサムエル記10-12章

説教題:『彼は黙っていた』

 旧約聖書では神について「怒るのに遅く」と表現される(出エジプト記34:6他)。そして、人についても、(箴言16:32)「怒りを遅くする者は勇士にまさり…」と教えている。人が自分の感情を適切に扱うのは賢明である。油注ぎを受けたサウルは、イスラエル王国の最初の王として民の前に立つ時が来た。しかし、心理的な重圧のためか、サウルは姿を隠した(10:22)。一方、サムエルは、王権を樹立する手配を進めていた(10:25; 8:10-)。重大な転換期である。民への説明、文書への記録、文書の保管が丁寧に実施された。サウルは(10:24)「主がお選びになったこの人を見なさい」と紹介された。新たに立てられた若い王の姿に民の反応は様々だった。多くの人々は歓迎したが、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と軽蔑した者たちもいた(10:27)。聖書は、その時のサウルについて、『彼は黙っていた』と伝える。しかも、アンモン人との戦いに勝利し、王としての実績を示した後も、王を軽蔑した者たちへの処罰の要求をたしなめた(11:12,13)。即位した当初のサウルは、このように思慮分別をもって状況に対処していた。私たちにも「怒るのに遅く」という品性が備わり、神を証しする者となりますように。


説教題:『私を訴えなさい』

 教職者の倫理について考えたい。新約聖書では教会の指導者の適性を教えて、「不正な利を求めず」(テトス1:7他)と挙げている。サムエルは、サウルを王に立てたところで自らの役目の一つを終えた。すでにサウルは王としての務めを果たし始めている(12:2)。これまでのサムエルは士師として民をさばいてきたが、王の統治への移行とともに権限を手放す。サムエルはその務めから退くにあたり、民に『私を訴えなさい』と呼びかけて、自身に不正があったかを問う(12:3)。こうした呼びかけのことばは、民のさばきを行う職にある者の危険をよく自覚していたことを意味する。神から委ねられた権威と務めを乱用して、利得を求めてしまう危険を意識していなければ、その職を退くにあたり、これほどまでに自分からはっきりと問うことはなかっただろう。サムエルの問いに対して、民は(12:4)「あなたは私たちを虐げたことも、踏みにじったことも、人の手から何かを取ったこともありません」と答えた。さらに、サムエルは、この自分と民との間のやり取りに証人を立てて、揺るぎない事実として念押しをしている(12:5,6)。後になって民の心が変化したとしても、批判の起こる余地を残さなかった。こうして当時の法的な手順を踏んだ場面に、厳粛で公正な審査、相互の責任においての決定の重みを考えさせられる。




ある日曜日の礼拝時の生花。


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今年のリトリート

2019-11-08 14:14:00 | 教会の風景
10月末には東村山聖書教会のリトリートを実施しました。
ちなみに、リトリートは「撤退」や「退却」を意味する語ですが、教会では「日常生活を離れて静まること」を指して用いることがあります。
私たちの教会では、昨年に続いて2回目の開催。
今年は台風19号の被害や影響で開催も危ぶまれたものの、お世話になる奥多摩の施設は無事だったため、快く迎えてくださいました。

私から見ても、今回は特にいくつかの点で有意義なひとときになったと喜んでいます。
たとえば、二人の方々に信仰に導かれた経緯や体験をお話しして頂きました。

今回これが実現したのは、事前の話し合いで提案されて、候補者となった方々も引き受けてくださったからです。
ささやかな積み重ねの中から「生まれてくる」ものがあるのだなぁと思いました。
慈しみ深い主の導きと備えとを感謝しています。



当日は天候にも恵まれて、自然の中で心身ともにリフレッシュする機会になりました。


さて、10月の礼拝で話した説教のあらすじも掲載しておきます。旧約聖書の講解は、サムエル記第一から続けています。

2019年10月 Ⅰサムエル記9-10章
説教題:『サウルとサムエルの出会い』
 最初の王が立てられるにあたり、聖書は『サウルとサムエルの出会い』の経緯を伝える。サウルの人物像については、ベニヤミン族に属する有力者の家庭に育ち、高身長の美しい若者だったという(9:1,2)。外見の印象の良さ自体は王に選ばれる条件ではないが(Ⅰサム16:7)、サウルもその後のダビデも、その容貌の良さについて言及がある(Ⅰサム16:12)。選ばれる条件とはならずとも、神は彼らに王の役目に資する風格を備えていたようだ。しかも、面識のない二人が出会うまでに、様々な出来事が折り重なる。サウルは父に頼まれ、いなくなったロバを探しに出かけたが(9:3)、一向に見つからない(9:4)。諦めかけたとき、同行していたしもべの提案で、預言者サムエルに相談することにした(9:5-8)。これらは偶然が重なったようにも見える。けれども、サムエルには、サウルの訪問を予告する主のことばがあった(9:16,17)。神はみこころのままに万事を用いる。私たちの人生に起こる出来事や出会いもまた、主のご計画が実現するために用いられる。(2019.10.13)

説教題:『主があなたに油を注がれた』
 サムエルはサウルに油を注ぎ、『主があなたに油を注がれた』と告げた(10:1)。この油注ぎは、彼をイスラエルの王に任命したことを意味する。そして、サウルがこの事態を受け入れられるよう、サムエルはしるしとなる出来事を告げた(10:2-6)。そのことばのとおりになれば、神がサムエルを通して語ったのだと確証され、サウルも認めることだろう。しかも、そのしるしには、「主の霊があなたの上に激しく下り」とも言われる(10:6)。この表現は士師記やサムエル記に見られ(士師14:6; Ⅰサム16:13等)、主がその人と親しく共にいるのを示す。サウルの場合で言えば、立派な容姿を備えていても、主が共におられなければ、王の務めをふさわしく果たせない。主の霊を受けて、「新しい人」、すなわち王の務めを果たす人に変えられる(10:6)。なお、この箇所を読むと、楽器の演奏や預言に注意を奪われそうだが、神の霊がもたらす新しさは、感情の高揚や目立った現象を伴うとは限らない。サウルがその場を立ち去ろうとしたとき、神は彼に「新しい心」を与えた(10:9)。今やすべての信者はキリストの贖いゆえに新しくされ、聖霊が内住し、共にいてくださる。聖霊は私たちに、キリストを証しする力を授けている(使徒1:9)。(2019.10.20)

すっかり長くなりました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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準備を進めています

2019-10-03 23:04:00 | 教会の風景
10月に入りました。
東村山聖書教会は、月末に奥多摩で一日リトリートを予定しています。
その機会の礼拝と交わりのために、準備を進めているところです。

自然に囲まれた環境の中、日常の慌ただしさから離れて、共に静まります。
一年に一度のことですが、互いの親睦を深めてリフレッシュする機会にもなっています。




さて、礼拝説教のあらすじを掲載しておきます。
旧約聖書からの講解説教2回分です。

2019年8月 Ⅰサムエル記6-7章
説教題:『神に対して償いを』
 ペリシテ人たちは、神の箱の扱いをダゴンの祭司と占い師に相談した(6:2)。イスラエルの神がもたらした災いに困り果てた末、彼らが頼ったのは自分たちの宗教や占いだった。真の神から離れている人間の姿を考えさせられる。ペリシテ人にしてみれば、神の箱はイスラエルとの戦いに大勝して手に入れた戦利品の一つだ。それを送り返そうというのだから、屈辱も混じった複雑な心情も考えられる。祭司や占い師らは、出エジプトのエジプト人とファラオを引き合いに出して、「心を硬くする」のを戒めた(6:6)。そればかりか、『神に対して償いを』と助言した。神の箱を元に返すだけでなく、真の神に対する不遜の罪を認めて償うようにということだ。真の神を敬わない罪は重く、その代償は大きい。神への不遜な態度は私たち罪人にとって根深い問題だ。しかし、イエス・キリストが私たちの罪の償いとなってくださったことにより、神は私たちを受け入れてくださる。心を頑なにせず、罪を認め、キリストを信じて、神に感謝しよう。

説教題:『心のすべてをもって主に立ち返る』
 悔い改めについて聖書から考えたい。神の箱がイスラエルの領地内に戻って二十年(7:2)。神の箱は戻ったものの、どうやら先の戦いの勝敗による両国の力関係に変化はなかったようだ。ただし、イスラエルの民の心に顕著な変化が見られた。「イスラエルの全家は主を慕い求めていた」とある。敗戦、神の箱の喪失と回復を経て、民全体が主なる神を切実に求めるようになるまで二十年という月日を要した。一方、サムエルは、『心のすべてをもって主に立ち返る』ようにと民に悔い改めを勧める。具体的には、異国の神々を取り除きなさい、心を主に向けなさい、ただ主に仕えなさい、と教えている(7:3)。これは、それまでのイスラエルの人々の信仰、霊的状態を踏まえて、明確な方向転換を促す指導だ。民はサムエルの指導に従い、サムエルもまた民のために祈ると、主はイスラエルを助けてペリシテ人の攻撃から救われた(7:4-14)。神は心から悔い改める者を蔑まれず、深く憐れんで救ってくださる。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。



写真は、日曜の礼拝時、講壇脇に飾られていた生花です。




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機会を生かすように

2019-08-05 16:54:00 | 教会の風景
暑い日が続いています。
この夏の間、東村山聖書教会には特別行事の予定はなく、通常のスケジュールで集会や運営が進められています。

回数や時間は限られているものの、一つ一つの集まる機会を生かすようにと心がけています。
開拓期の小規模な教会に合ったペースなのかもしれません。
定期集会、個別の相談や訪問の機会を大切にして、牧会の務めに尽くしています。




さて、長くなりますが、7月分の説教のあらすじを掲載しておきます。(旧約聖書からの講解説教の2回分です)

2019年7月 Ⅰサムエル記4-5章
『主の契約の箱をわれわれのところに』:Ⅰサムエル記4:1-11
 『主に拠り頼む信仰』とはどういうものだろうか。誤解は悲しい結果を引き起こす。イスラエルの人々にサムエルが預言者だと認知された頃、ペリシテ人の勢力は北上し、イスラエルの所有する地域に侵攻した(4:1)。イスラエルは序盤で敗北し、建て直しを図る作戦会議を開いた。長老たちは、「『主の契約の箱をわれわれのところに』持って来よう」と提案した(4:3)。その作戦を実行すると、イスラエル軍の士気は大いに上がり、ペリシテ人は動揺した(4:5-7)。作戦の効果は抜群に見えたが、イスラエルは大敗した(‪3:10‬)。神の箱はペリシテ人の手に渡り、同行していた祭司ホフニとピネハスも戦死した(‪3:11‬)。おまけに、敗戦の知らせを聞いたエリの転落死、ピネハスに生まれた息子「イ・カボデ」の名も、イスラエルの深い悲しみと不名誉を伝える(‪3:18-22‬)。そもそも、長老たちの作戦は信仰だったのだろうか。「持って来よう」という発言には、自分たちの思い通りに神を動かせるかのような誤解が垣間見える。もし本当に主を恐れているならば、初めの敗戦で主のことばを求めていたはずだ。当時、サムエルが預言者として立てられたと知れ渡っていたのなら(4:1)、なおさらである。主に信頼すると言いながら自分の思いで動かそうとしていないか、主のことばに基づく信仰であるか、よく吟味したい。(2019.7.14)


『神の箱を取り、ダゴンの傍に置いた』:Ⅰサムエル記5:1-12
 前回に続き、神を信じる信仰について考えたい。聖書は唯一至高の神を教えている。しかし、私たち人間の神理解はいかにずれていることか。今回はペリシテ人の失敗から学ぶ。戦争に勝ったペリシテ人は、当時の習慣にならい、イスラエルの神の箱を自分たちの国の神殿に持ち帰った。(5:1,2)「ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た。それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。」文脈により翻訳のことばは異なるものの、「奪って」と「取り」、そして(4:3)「持って来よう」にも同じことばが使われている。ペリシテ人が『神の箱を取り、ダゴンの傍に置いた』のは、ダゴンの優位性を示そうとしたのだろう。それに対して、主は二つの方法でご自身こそ真の神だと示す。二日に渡り、神殿内のダゴンの像が倒れ、二日目は像が切り離されていた(5:3-5)。もう一つは腫れ物となる病気だ(5:6-9)。神の箱を移す先々の町でこの病気が発生し、住民を不安に陥れた。ペリシテ人の領主たちはたまりかねて、神の箱を戻す計画を立てた(‪5:11‬)。人間の宗教心や神理解そのものは真の神から遠く離れている。私たちは聖書によって神を知る。信仰は神からの賜物である。(2019.7.21)


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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3年間の積み重ね

2019-06-04 17:52:00 | 教会の風景
今年も5月末に信徒総会を終えました。
教会のみなさんと2018年度の運営を振り返り、決算や行事の報告の場を持ちました。3年目の東村山聖書教会に、主が備えてくださった数々の恵みを確かめることになりました。
活動の規模の大小で言えばささやかでしょうが、集っているひとりひとりがキリストの救いとみことばに生かされている姿は宣教に用いられています。今の教会の集まりに与えられている穏やかさと落ち着きは、これまでの3年間の積み重ねの実りなのだと思います。
主の御業への期待と祈りを新たにしています。
 
 
しばらく、更新していませんでしたので、4-5月の礼拝説教のあらすじを掲載しておきます。(旧約聖書からの講解説教の分のみで3回)
 
2019年4月 Ⅰサムエル記2:18-21
神は、みこころのままに人を召して、ご自身に仕える者とする。サムエルの奉仕は、母が彼の身を祭司エリに託す形で始まったものの(2:11)、次第にサムエル自身の自覚も伴い、相応の務めを果たすようになっていたと考えられる(2:18)。「亜麻布のエポデをまとった幼いしもべとして『主の前に仕えていた』」と伝えられる。母ハンナは、息子の成長を気にかけて、「小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。」(2:19)普段は離れていても、母の信仰と愛情は、息子サムエルの奉仕の日々を支えていた。一方、祭司エリの祈りとともに、主はハンナを顧みて、サムエルの他にも子供たちを授けた(2:20)。主はサムエルを育み、そればかりでなく彼の家族をも顧みて、祝福していた。神は、人の献身や奉仕を導き、祝福する。私たちは神に期待し、信仰継承や献身する者とその家族のために祈りつつ、実際に支援する者でありたい。
 
2019年5月 Ⅰサムエル記2:22-36
霊的成長や健全な信仰について考えるとき、神との関係や人との関係は重要だ。祭司エリの息子たちの言動は、イスラエルの民の間で評判が悪かった(2:23,24)。実際に、彼らの行いは悪く、律法に反した罪深いものだった。エリは、「主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか」と息子たちを厳しいことばで忠告しなければならなかった(2:25)。彼らは、公平かつ憐れみ深い主をないがしろにし、なおかつ主の民を悩ましていた。その一方、聖書はサムエルについてこう伝える。(2:26)「少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。」主にも人々にも良く思われていたのは、エリの息子たちと対照的だ。若者に信仰と知恵を教える書、箴言にも「神と人との前に好意を得、聡明であれ」と勧められている(3:4)。新約聖書ではルカが、「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった」としている(ルカ2:52)。私たちの信仰の生涯が『主にも人にも』良いものへと整えられますように。
神は歴史の主である。神はかつてイスラエルの民の中からレビ族を選び、さらにその中から祭司の一族を立てて、礼拝の務めを委ねてきた(2:28)。しかし、不忠実な奉仕を続けるエリの息子たち、ホフニとピネハスのことでエリに預言者が遣わされ、さばきの宣告が下された(2:30-36)。やがてその通りとなる(4:11;列王記2:26,27)。ただし、神はさばきの宣告のうちにも、将来に希望があることも示す。「わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む」(2:35)という。神によって『忠実な祭司』が現れるという予告だ。しかも、「わたしに油注がれた者の前を」とは、王による統治が忠実な祭司の奉仕とともにあるのを示唆している。それは、ダビデ王の時代に祭司として奉仕するツァドク(Ⅱサムエル8:17; 歴代誌24:3)のことを言うようだ。古代イスラエル王国に忠実な祭司の存在が約束されたのと重ねて、私たちは思い起こす。神の国は、王であり忠実な大祭司であるイエス・キリスト(ヘブル2:17,18)の御業によって、揺るぎないものである。
 
 
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
 

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