マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

新緑の季節

2020-04-24 00:07:00 | 教会の風景

新緑の季節を迎えています。ウォーキングの途中に撮影。



ステイホームを心がけつつ、心身の健康管理も大切にしています。

 

さて、教会の話題です。3月末から、教会はすべての行事を中止して、その代わりに教会員に文書を送っています。

今回は、その文書に掲載したメッセージをご紹介します。新約聖書 ヤコブの手紙5章7-11節からです。

7 ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。9 兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。10 兄弟たち。苦難と忍耐については、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。

 

題:『耐え忍びなさい』

①「耐え忍びなさい」(5:7,8)

 ヤコブは、試練に苦しむキリスト者たちに「耐え忍びなさい」と言います。これは「我慢が足りない!」と厳しく責めているわけではありません。この手紙でくり返し「(私の愛する)兄弟たち」と呼びかけていることからも、むしろ対等な立場、同じ目線に立って、力づけるためのことばをかけています。励ましのことばです。

 この「耐え忍ぶ」には、「待っている間、落ち着いている」という含みがあります。ヤコブはすべての苦しみの終わりを示して、「主が来られる時まで耐え忍びなさい」と言い、その時をじっと待つように諭しています。永遠に待ち続けるのではなく、主の再臨という期限があって、必ずその時が来ます。

 農夫の仕事は、天候に左右されます。先の雨は種まきに、後の雨は作物の実りに欠かせません。農夫はやがて得られる収穫を期待して、じっとその雨を待ちます。必ずその時が来るからです。信仰には「待ち望む」(ヘブ10:11)という特徴があります。

 「耐え忍びなさい。心を強くしなさい。」とは、将来への期待や希望を抱いて、じっと待ち続ける姿を教えています。絶望は、私たちの心と人生を破壊します。心が騒ぐときにこそ、神に望みを置いて、主イエスの再臨という結末を思い巡らしましょう。

 

②「互いに文句を言い合うのはやめなさい」(5:9)

 ここに「互いに文句を言い合うのはやめなさい」とあるのは、とても現実的です。苦しい時、辛い時、私たちの心はゆとりを失います。すると、周囲には、冷ややかな見方や厳しいことばで接してしまいます。それは仕方がないことでしょう。ただし、だからと言って、お互いにそのままの態度でいて良いわけではありません。

 ヤコブは、「さばかれることがないように」と言います。文句を言い合うのは、キリスト者にはふさわしくないからです。(ピリ2:14-16)「すべてのことを、不平を言わずに…」、神の救いに信頼して、心の平静を保つよう励ますのが信者の交わりです。

 

③「預言者たちを模範にしなさい」(5:10,11)

 「苦難と忍耐」というのは大変な課題です。ですが、「主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい」という手がかりがあります。私たちには預言者というモデルがあるのです。聖書は彼らを「耐え忍んだ人たち」と言いますが、実際には途中で弱音を吐いて、浮き沈みもありました。しかし、それでも失望せずにいたので、「耐え忍んだ人たち」とされました。

 ヨブの幸いな結末(ヨブ42:10)にも、「主は慈愛に富み、あわれみに満ちて」いるのは明らかです。預言者たちをモデルに「耐え忍びなさい」と教える神は、私たちにも幸い(マタ5:3-10)を約束しています。困難な時こそ、主を待ち望む心を新たにしましょう。

2020.3.29.

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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もうすぐ一ヶ月に

2020-04-19 17:13:00 | 教会の風景

いきなり余談で恐縮ですが…。

私の最近のお気に入りです。
iPadの時計アプリは、スキューバダイビングが背景になっているものを見つけました。
ドリンクは、ルイボス・ソイミルクティー。
 


 
ところで、東村山聖書教会の主日礼拝を中止にしてから、もうすぐ一ヶ月。
直接会うことを控えつつ、いろいろな手段でコミュニケーションを取りながら、互いのことを心にかけて祈り、励まし合っているところです。
 
教会の活動に制限が及んでいるものの、こういう状況だからこそ生まれてくる新しい視点や展望、時間の使い方や手段、価値観や関係性の変化もあるのでは…と思っています。
それで、各家庭で礼拝の時間を持つ助けとなるように、週報と聖書からのメッセージを要約した文書を毎週お送りしています。
 
 
今、心に留めている新約聖書の一節です。
使徒パウロが弟子テモテに送った手紙のことばから。
 
「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。」
(テモテへの手紙 第一 2章1-3節)

この危機的な状況の中で尽力している方々のために祈りをささげています。
各分野で権限を持つ方々が賢明な判断を下せますように。
現場に身を置く方々が的確に対応できますように。
必要とされている物資や人材が補われていきますように。
 
私には何ができるというものもありませんが…
節度ある行動を心がけていたいと思います。
 

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15年目の春

2020-04-06 23:16:00 | 教会の風景
 


 
牧師になって15年目の春。
新型コロナ対策のため、教会での主日礼拝を中止するという状況の中で迎えました。
 
先週に続いて、教会の皆さんには週報と聖書のメッセージ文書をお送りしました。
それぞれのご家庭での礼拝をお勧めしています。
 
節度ある行動を心がけて、皆さんと共にこの大変な時期を乗り越えていければと思います。
 
さて、礼拝説教のあらすじ(旧約聖書講解の2回分)を掲載しておきます。
掲載が追いついて、3月分です。
 

2020年3月 Ⅰサムエル記14章

説教題:『妨げるものは何もない』

 「匹夫の勇」とは「思慮分別がなく、血気にはやるだけのつまらない勇気」のことだ。聖書はキリスト者に勇気を教えるが(ヨハネ16:33他)、その勇気とはどのようなものか。主への信頼が勇気をもたらし、正しい行動につながり、神の栄光を現す。ペリシテの軍隊と対峙する中、ヨナタンは自軍の道具持ちに「無割礼の者どもの先陣のところに渡って行こう」と声をかけた(14:6)。割礼は主なる神との契約を示す(創世記17:10,11)。「主がわれわれに味方してくださるだろう」とは、神とイスラエルの関係に基づいて、神の救いを信頼しての発言だ。「主がお救いになるのを『妨げるものは何もない』」と続く。ただし、ヨナタンの勇気には思慮深さや慎重さも備わっていた。ペリシテ人の反応次第では、それ以上突き進むのが神のみこころではないと考える余地も残していた(14:8-10)。結局、ヨナタンはみこころを確信し、敵の先陣に自ら突入。それがきっかけで敵の全軍に動揺をもたらし、敗走させた(14:12-15)。ここに神の御業を見る。私たちも神の真実な救いに信頼し、みこころを尋ね求めつつ、実際に行動したい。(2020.3.8)

 

説教題:『父はこの国を悩ませている』

 宗教的な偽善は神に喜ばれないばかりか、人々を巻き込んで多くの害をもたらす。すでに王サウルは、いけにえの一件で主のみこころを損なっていた(13:13)。しかし、それだけでは済まなかった。主がイスラエルを勝利に導いた日、「イスラエル人はひどく苦しんでいた」と伝えられる(14:24)。本来なら勝利を喜ぶ声、神を讃える声が響き渡っても良さそうなものだ。イスラエル人は、当初ペリシテの大軍に追い詰められていた(13:6)。しかし勝利してなお、苦境に置かれていた。それはなぜか。サウルは勝利のために誓願を立て、兵士たちに断食を命じていたのだ。苦しみの原因は、その誓願だったのだ。皮肉にも、その戦場となっていた地域では蜂蜜がたやすく入手できたという(14:25,26)。サウルの誓願を知らなかったヨナタンは、わずかな蜜を口にしただけでも疲労を回復した(14:27)。その後、事情を知らされたヨナタンは、『父はこの国を悩ませている』と言った。新約聖書では、主イエスが山上の説教で軽率な誓いを戒めている(マタイ5:33-37)。私たちの礼拝や祈り、奉仕やささげ物に込められた動機や目的は、主のみこころにかなうものだろうか。(2020.3.15)

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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中止の判断

2020-03-28 23:35:00 | 教会の風景

外出自粛の要請を受け、現状も考慮し、東村山聖書教会は明日、3月29日の主日礼拝を中止することになっています。

今日は夕方のうちに、教会のみなさんに週報と説教の代替となる文書をお送りしました。各家庭で聖書と祈りの時間を過ごすのに役立てて頂ければと思っています。

 

さて、今回も礼拝説教(旧約聖書の講解2回分)のあらすじを掲載しておきます。

2020年2月 Ⅰサムエル記13章

説教題:『危機迫るとき』

 危機の中でこそ私たちの信仰の真価が問われるのではないだろうか。『危機迫るとき』と題して、信仰者の経験する危機について考え、心構えにも触れたい。イスラエル王国は、サウルと息子ヨナタンの下で徐々に整備されていた(13:2)。そのような中、ヨナタンがペリシテ人の守備隊長を殺害したのを契機に、イスラエルとペリシテの間に緊張が高まった(13:3,4)。その時点の両国の戦力からすれば、ペリシテが圧倒的に有利だ(13:2,5)。それは、兵士だけでなく、民にも自明であった。それで、逃亡する者たちもおり、サウルの指揮下に置かれた兵士でさえ「震えながら彼に従っていた」という(13:6,7)。すでに見たように、主はサウルを王に立てて、アンモン人との戦いで華々しい勝利へと導かれた(11章)。ところが、この時は事情が違うようで、聖書に説明はない。ただし確かなのは、信仰者、主の民も危機を経験する。信仰者にも、危機、試練や苦しみが訪れるのを自覚しておきたい。使徒ペテロが、試練の中にあるキリスト者たちに書き送ったことばを思い起こす。(Ⅰペテロ4:1,2,12,13)「キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。…不審に思ってはいけません。…キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」  (2020.2.9)

 

説教題:『愚かなことをしたものだ』

 今回は、孤独という視点で人生の危機について再考したい。(13:8)「サムエルがいることになっている例祭」にサムエルが現れなかった。(7:15-17)によれば、彼は定期的にギルガルを巡回した。本来ならば、いても良いはずだが、未だ到着しない。折り悪く、ペリシテ人との戦いが差し迫る。もともと劣勢のイスラエルは士気が低く、兵士たちの逃亡に拍車がかかりそうだ。(13:8)「兵士たちはサウルから離れて散って行こうとした」とある。このような事態に、サウル王は孤独や無力感に苛まれたのではないか。新約聖書によれば、使徒パウロ(Ⅱテモテ4:16)や主イエス(ヨハネ6:66; 16:32)も、仲間に見捨てられ、独りになる時があった。孤独がもたらす精神的負担は大きい。このサウルの場合、突き動かされるように、主に全焼のいけにえをささげてしまった(13:8-10)。サムエルは、到着を待てなかったサウルに『愚かなことをしたものだ』と言い放った(13:13)。本来、いけにえをささげる行為は、神への信仰から行われる。ところが、この時のサウルの動機は人々が離れていく恐れや焦りからではなかっただろうか。先のパウロ(Ⅱテモテ4:16,17)と主イエス(ヨハネ16:32,33)は、孤独な身になりながらも、「主は私とともに立ち…」、「父がわたしとともにおられるので」と理解し、信じていた。孤独という危機にこそ、主が私とともにおられると思い起こし、託された自分の使命を果たしたい。(2020.2.16)

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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何を心に留めるか…

2020-03-19 00:55:00 | 教会の風景
先日、主日礼拝で歌われた讃美歌の一節にこのような歌詞がありました。
 
わずらわしき 世のわざに、
やるせもなき 悲しみに、
なおひそめる みいつくしみ
見させたまえ あやまたず。
 
[教会福音讃美歌420番 『主よ、こころみ受くるおり』/In the hour of trial:James Montgomery(1834)]
 
私たちが困難を覚えるときにも、主のいつくしみをしっかりと心に留めていたいものです。
 

ある日曜日の礼拝時に飾られた生花です。
 
続いて、礼拝の説教(旧約聖書からの講解2回分)のあらすじも掲載しておきます。

2020年1月 Ⅰサムエル記12章

説教題:『すべての正義のみわざを説き明かそう』

 神の正義とはどのようなものだろうか。新たに王を立てたばかりのイスラエルの民に向かって、預言者サムエルは、『すべての正義のみわざを説き明かそう』と語った(12:7)。この「説き明かそう」とは、何が正しいかを明らかにしようとしている。「主があなたがたと、あなたがたの先祖に行われたすべての正義のみわざ」とは、イスラエルとの契約において、神がいかに誠実であったのかを指し示す。出エジプトの出来事やカナンを所有した士師の時代の経験について「あなたがたの先祖は主に叫んだ…主は…を遣わした」と表現し、神がイスラエルに救いの手を差し伸べてきた事実を述べている(12:8-11)。このように、神の正義は、ご自分の民の救いに現されている。にもかかわらず、イスラエルは、主を忘れ、主を捨てて(12:9,10)、王を求めた(12:12)のである。今やイスラエルで王制が敷かれているからこそ、サムエルは、神を退けて人に頼ることを厳しく戒めている(12:13-15)。そして、彼らが神に対して犯した悪の大きさを自覚するよう、「認めて、心に留めなさい」と促した(12:16,17)。神は、苦しみの中にある者を救う正義の神。私たちは、誰をあるいは何を拠り所としているだろうか。(2020.1.12)

 

説教題:『とてもできない』

 サムエルは主の民イスラエルを前にして、『とてもできない』と語った(12:23)。このサムエルの発言から、真の牧会をテーマに考えてみたい。ここでサムエルは、罪の悔い改めと神の赦しを、主の民に欠かせないものとしている。(12:17)で「あなたがたは王を求めることで、主の目の前に犯した悪が大きかったことを認めて、心に留めなさい」と語った。彼のことばを確証するしるしも伴った(12:18)。すると、民には主とサムエルへの恐れが生じ、罪の自覚と告白があった(12:19)。自分たちの罪に直面させられ、神のみこころにかなう態度を選んだといえる(箴言28:13; 詩篇32:5)。すると、サムエルは(12:20)「恐れてはならない…主に仕えなさい」と語りかけた。自分の罪を認めて心から悔い改める者を、神はお赦しになる。神の赦しは確かである(12:22)。「恐れてはならない」という励ましがふさわしい。サムエルは、ここまで民を導いてきた。(12:23)からすれば、このように民をとりなして祈り、指導するのをやめるなど、彼にはありえないことだった。これは新約聖書の使徒ペテロのことばにも通じるだろう(Ⅱペテロ1:10-13)。神のみこころに反する罪を悔い改め、神に赦されて、救いにしっかりと留まり続ける。現代の牧会者も、そのように人々をとりなし、教える。(2020.1.19)

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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