マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

2月のバースデー、そして・・・

2007-02-13 16:53:30 | 教会の風景
洗礼式が終わった後、場所を移動。
シオン会館の地下で、I君の受洗と2月のバースデーを祝う。

賛美と祈りで始まり、2月の誕生日者の紹介。
実は2月は非常に多かった!
それぞれキャンドルの灯されたケーキを用意して、♪ハッピーバースデー♪
その後、M君がバースデーを祝って、ギターを弾きながら2曲歌ってくれた。
サングラスで盛り上がる二人の姿も。

ゆったりとくつろぎの時間。

手作りケーキやチョコレートを頂いた。




しばらくゆっくり過ごして、その後に、KING GRACE(キングレ)のファン感謝祭ということで体育館へ。
田無第一中学の体育館。
バスケットをすることになった。
久々のバスケをかなり楽しんだ。
もしかして、一番はりきっていたかも・・・。

相変わらず体力はないので、ウルトラマン状態(3分が限界)だけれど、随分いい運動になった。


一部帰宅する子を送って、その後、夕食でサイゼリヤへ。
こんな感じ。





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Ⅰ君の洗礼式

2007-02-13 16:31:13 | 教会の風景
2月12日、今まで準備をしてきたI君の洗礼式。
ひばりが丘の教会で行われた。
私はまだ按手礼を受けておらず、洗礼を授ける権限がないので、東村山教会にとっての母教会の牧師であるI先生にお願いをしてあった。





ひとりの人が、罪を悔い改めイエス様を信じる姿に感動。
その式を見届けるために集まった30名ほどの方々と、今後のI君の歩みの祝福を祈る。
式自体はやはり厳粛な雰囲気もあったが、その後の証しの時間と記念撮影は、終始笑いが絶えなかった。
「こんなに笑った洗礼式は初めて。」という感想も。


当日集まったユースのメンバーで撮った写真。

他にもたくさん写真を撮っていたが、私の携帯ではこれしか撮っていないので、ここにはこれしか載せられないのが残念。

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にぎやかな日曜の夜

2007-02-13 16:17:11 | 教会の風景
日曜の夕方は、いつもどおりYouth for Jesusで集まった。
今日は愛知や静岡方面からも参加者があって、いつもよりにぎやかだった。
翌日が休みということもあって、みんなゆっくりできたこともある。

集会の司会をしたS君は、ここ一ヶ月仕事が忙しく、ほとんど休みなしで働いていたそう。
YFJに参加できたのも一ヶ月ぶり。
そんなS君がこんなコメント。
「やっぱりここに来るとホッとする。みんなの笑顔があっていい。」
YFJの魅力、イエス様にあって集まることの魅力を実感。
いつまでもそんな集まりでありたいなぁ。

集会後は、それぞれの過ごし方。
あちらでは賛美の練習。


こちらでは夕食の準備。


でもこの日はアクシデント。
キャベツの千切りをしていた私が包丁で指を切ってしまった。
痛っ!!
細さと速さにこだわって調子よく切っていたが、調子に乗りすぎたようで勢いが余ってしまった・・・やれやれ。

そして夕食。

しっかりカメラ目線のYちゃん。

この日のメニューはカレーライスとサラダ。
食べ始めてから、写真を撮り忘れたのに気がついた。
お腹が空いていたので(?)、ついつい衝動で動いてしまったようだ。

食事の後もゆっくり過ごして、また深夜の帰宅になった。
A荘に宿泊のRちゃんとNといっしょに帰宅。


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『わたし』と『あなた』の関係

2007-02-13 15:48:37 | 教会の風景
礼拝説教のダイジェスト

聖書箇所:創世記17:1-8

『わたし』と『あなた』の関係

イシュマエルを授かってから13年の月日が流れる。
その間、聖書では主がアブラムに現れたという記録は残っていない。
アブラム86歳の記録から99歳の記録へ飛んでしまう。
恐らく、アブラムとサライの二人は、主の約束がイシュマエルを通して実現するのだと考えていたことだろう。
女奴隷ハガルを通して子をもうけるという方法が適切であったと信じていたかもしれない。


しかし、13年の沈黙を破り、アブラムに主が現れる。
そして、語りかける。


「わたしは全能の神である。」(17:1)
アブラムは、この言葉の意味をどれだけ分かっていただろう?
それまでの主の祝福や導きの中で、経験的にある程度は理解できていたと思う。
主が「全能の神」と言われた場合、まさしく望むように何でもできるということだ。
しかし、この時点のアブラムは、まだ本当の意味で「主が全能の神」であることを知る(信じる)に至っていないのではないだろうか。


「神を信じる」と告白していても、必ずしもそれで神様を正しく理解しているとは限らない。
例えば、しばらく前の教会史の講義で習ったことで「理神論」というのがある。
理神論は、神がこの世界を創造されたと信じる。
しかし、神は自然の法則を定められ、あとは自動的にこの世界が進んでいくようにセットされたと考える。
そうなると当然、神の摂理やこの世界への介入、奇跡やキリストの神性は信じられない。
理神論に立つ人々もクリスチャンと自称するかもしれない。
しかし、実際は聖書の教える神の姿とは、その理解が離れている。


主は自らを「わたしは全能の神である」と表現された。
私たちも使徒信条で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しているけれども、その意味するところをどれだけ知って(信じて)いるだろうか?


「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」(17:1)
先に「わたしは全能の神である。」と言った方は、アブラムに一つの命令を授ける。
先の自己紹介とこの命令は、セットとして考えられる。
主が全能であるならば、主の前を歩み、全き者であるべきだと当然うなづける。

ちなみに、「主の前を歩む」:日常的に主を認めて生きること。
そして、「全き者」:とがめられるところのない者、誠実で一筋な者。

主は、「わたしが何でもできる」と示し、だからこそ「わたしに本当に頼ればいいのだよ」と声をかけられた。
私たちは本気でこの方に頼り続けていく者でありたい。


その後に続く契約も、「わたしの契約」となっている。
主が自分の力で契約を果たされることを保証している。
アブラム(高められた父) → アブラハム(多くの国民の父)
主がそのようにしてくださる、これほど心強いことはない!


主はアブラムに『わたし』と『あなた』という関係で語りかけられた。
この世界を創造されて後、遠く離れている方ではない。
側に来て、語りかけた方。
そして、自分が契約を果たすと明言された。


新約聖書によれば、主を信じる私たちはアブラハムの子孫だと言われている。
また、神は変わることのない方。
であるならば、私たちもこの方に信頼することができる。
私たちを召して、救ってくださった方は、「全能の神」である。
そして、『わたし』と『あなた』という関係を築いてくださる方。
私たち自身は弱くても、この方が側にいてくださるから、心強い。


主よ。あなたに拠り頼みます。
あなたの御業に期待しています。

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