蝶(タテアゲハ?)も暑さを避けて木陰に...
残念ながら、あまりうまく撮れませんでしたが。
私もちょっとした涼を求めて...
さて、話は変わりますが、6月の礼拝説教あらすじ(レビ記10:1-11:47)を掲載しておきます。
神の栄光の現れに対する賞賛と礼拝がささげられた後(10:23,24)、まさに同じ場所で悲劇が起きた。ナダブとアビフの問題として指摘されているのは、主の命令に従っていなかったという点である(10:1)。彼らの行為を上辺だけ見れば、祭司の務めを果たしているかのように見えただろう。しかし、実際は神の御前には受け入れられなかった。この愚行の一つの要因として、彼らが酔っていたとも考えられる(10:9)。主の下された裁きは厳粛なものだった(10:2)。『神の聖』について主は語られた。(10:3)「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。」神のみこころに従って近づく者は、神の栄光を拝する恵みにあずかるが、真理に背きながら不用意に近づくならば、その身に裁きを招く。神の聖は厳かで侵しがたいものである。アロンは二人の息子を亡くすという悲劇に見舞われたが、じっと沈黙を守る(10:7)。しかし、祭司に定められた供え物を食べ損ねたことをモーセに指摘されると、聖なる神に仕える罪人としての苦悩を告白した(10:19)。
神は、イスラエルに対して、神ご自身の聖を反映するようにと望んだ。(11:44,45)「・・・あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」この『神の民の聖』というテーマは、明らかに旧新約一貫したものである。しかし、イスラエル人の食べても良い生物、食べてはならない生物の区別に関する規定が記された、レビ記11章の内容理解については、学者たちの間でも議論が続けられてきた。1.イスラエルを異教の習慣から守るため。2.神の民の自覚を促し、周辺諸国への証しのため。3.衛生上の配慮。4.象徴的な意味を含む。およそ以上のような見解があるが、聖書本文から真意を特定することは困難である。ただし、当時のイスラエルの日常生活と神の聖が結びつけられていることに変わりはない。私たちにはこの食物の規定は無効である(マルコ7:19,ローマ14章など)ものの、キリストの贖いによって私たちを聖なる神の民としてくださった(1ペテロ2:9)神ご自身を喜び、日ごとに感謝をささげる者でありたい。
最後まで読んでくださりありがとうございます。