先日、写真を載せたラズベリーの蕾が一斉に咲いています。
鉢植えにしたエリゲロンも蕾をつけました。
昨年の秋に一部移植したレモンバームも、その場所で元気に成長しています。
さて、月報に掲載した、旧約聖書からの説教の要約も掲載しておきます。
旧約聖書は、レビ記を終えて、民数記に入りました。
レビ記27章は、自発的な誓願やささげものをする場合の規定が定められている。27章を後世の挿入とする見解もあるが、26章がイスラエルの従順・不従順に対する主の応答であるのに対し、27章が主に対するイスラエルの応答に関する規定であるので、切り離して考える必要はない(27:1)。人身評価の額(1シェケルは約一ヶ月分の賃金とも言われる)と、買い戻しには20%が加算されるのを考慮すると、『奉仕とささげものへの思慮深さ』を促していると考えられる。新約聖書を見ても、主イエスはたびたび軽率な誓いを戒めている(マタイ5:33‐37,15:3‐9など)。一時的な感情の高揚や苦しみの中での安易な誓いを避けて、恵みに対する感謝の心と冷静な判断をもって主に仕える者でありたい。
民数記は三部構成と考えられる。①最初の人口調査(1‐10章)②カナンに向かう旅・中途での挫折(11-25章)③2度目の人口調査(26‐36章)である。以上の構成より、人口調査の意味付けは、約束の地に向かうための『荒野での準備』だと言える。「軍務につくことのできる者」(1:3)を数えたのもそれを示す。主は、エジプト脱出時に超自然的な奇蹟でイスラエルをエジプト軍から救出した。しかし、主はシナイでイスラエルに律法を授け、神の民としての整えを進め、軍団をも整備された。主は、そのようにしてイスラエルをカナンへと向かわせた。神の臨在と助けは常にある。しかし、導く方法は適宜変化し、信仰を問われる。
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