昨秋から祈祷会では聖書通読と並行して、『人生の秋を生きる』も少しずつ読み進めています。
この前は、「後継者づくり」という章を読みました。
その中の一節にこのようにありました。
「…この後継者づくりという発想は、実はよく考えてみれば、人がその老いを自覚した四十代、五十代からおぼろげに自覚されつつある事柄ではないでしょうか…」(73ページ)
私も四十代を前にして、続く世代に何を伝え、どのようにバトンタッチしていくのか…そんな漠然とした思いはあります。
4月で牧会は9年目に入ります。
これまでどれだけ主のお役に立ててきたのかという問いと戸惑いとが私にはあります。
その時その時に最善を尽くしてきたつもりですが、自らの至らなさに主の憐れみを願うばかりです。
そんなことを祈祷会で教えられた矢先に、神学校のチャペルの説教でも「後継者」のことを考えさせられました。
M先生がヨシュア記24章から説教してくださいました。
説教の中で引用され、後継者のことで触れられたこの一節が私の心に留まっています。
(旧約聖書 ヨシュア記24:31)「イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。」
この前は、「後継者づくり」という章を読みました。
その中の一節にこのようにありました。
「…この後継者づくりという発想は、実はよく考えてみれば、人がその老いを自覚した四十代、五十代からおぼろげに自覚されつつある事柄ではないでしょうか…」(73ページ)
私も四十代を前にして、続く世代に何を伝え、どのようにバトンタッチしていくのか…そんな漠然とした思いはあります。
4月で牧会は9年目に入ります。
これまでどれだけ主のお役に立ててきたのかという問いと戸惑いとが私にはあります。
その時その時に最善を尽くしてきたつもりですが、自らの至らなさに主の憐れみを願うばかりです。
そんなことを祈祷会で教えられた矢先に、神学校のチャペルの説教でも「後継者」のことを考えさせられました。
M先生がヨシュア記24章から説教してくださいました。
説教の中で引用され、後継者のことで触れられたこの一節が私の心に留まっています。
(旧約聖書 ヨシュア記24:31)「イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。」