2019年2月 サムエル記第一1章20節-2章10節
神は、信じる者の祈りを通して、ご自身の栄光を現す。神はハンナの祈りに答え、彼女に子供を授けた。ハンナは出産して数年後、まだ幼い息子サムエルを連れて、祭司エリを訪ねた。そして、「…『この子のことを』私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。…」と告げた(1:27)。彼女のこの確信は、そもそもこの子の誕生の時からのものだ。聖書(1:20)は、彼女がサムエルと名付けたエピソードを紹介している。サムエルの存在と名前は、神が彼女の祈りにお答えになったことを力強く物語る。また、当初から事あるごとに夫エルカナにも証しし(1:21-25)、そして祭司エリにも事の次第を話している(1:27,28)。かつて立てた誓願のことばどおりに「この子を主におゆだねいたします」とし、この子の誕生にまつわるすべてのことを導いている神に栄光を帰した。恵み豊かな神が私たちの祈りにも最善に答えてくださるのだから、それを証しすることで神に栄光を帰することに心を配りたい。私たちの祈りは、神に栄光を帰する証しをもって全うされる。
私たちのささげる祈りはお願いで終始していないだろうか。1章では、心を注ぎ出すハンナの祈り、その祈りに答える神、神に栄光を帰する彼女の証しと続いた。2章でハンナの祈りが再び記されるが、その趣は異なる。「私の心」、「私の角」、「私の口」という「私の」のくり返しはハンナの個人的な心情を映すもので、その最初に『主を大いに喜ぶ』と告白している(2:1)。ハンナは、主ご自身を喜び、誇っている。また彼女は、神にあって面目を保ち、失意という大敵に打ち勝つことができた。それは、神がご自分の民を救う方だからだ。この祈りの背景にはハンナの個人的な体験があるにしても、神はイスラエルの民と契約を結んだお方である。「~ない」のくり返しは、他に並ぶ者のいない至高の存在を印象づける(2:2)。「岩」は保護や力を象徴すると考えられるので、「私たちの神のような岩はありません」とは、この神を拠り所としている主の民の幸いを表現している。私たちの個人的な祈りも、私たちをキリストによって贖ってくださった神、唯一の主に向かうものである。単なる個人的な願いを並べる祈りにとどまらず、聖なる神自身を喜び、その確かな力を誇る、祈りの人でありたい。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。