マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

神様の祝福

2007-12-04 18:47:19 | 教会の風景
12月2日の礼拝説教ダイジェスト


聖書箇所 創世記35:9-15

「祝福の宣言」


9節
「こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。」

神様は祝福することを惜しまない。
むしろ、神の祝福は、くり返しヤコブに告げられている。

20年前、このベテルの地域で旅の途中のヤコブを祝福した。
20年後、ベテルに戻ってきて、再び祝福が告げられた。
祝福のメッセージは、ヤコブが節目を迎えるごとに確認された。

神様は人をよく知っておられる。
私たちは、忘れやすく誤解しやすい存在である。
神様が良いメッセージとして伝えたことでさえ、曲解してしまうことがある。
くり返し聞くことの大切さを私たちは学ぶ必要がある。


さて、基本的な疑問だが、神の祝福とは何だろう?
20年前のヤコブへの祝福の約束は、20年後と比較すると・・・


杖一本 → 二つの宿営

ひとり → 12人の息子を持つ大家族

兄との確執と旅立ち → 兄との和解と帰郷


というところに現れているように思われる。
だが、神の祝福とは財産や家族、問題の解決だけを意味するのだろうか?


もしそうであるならば、神様はここで再びヤコブを祝福する意味は薄れてしまう。
すでに持っているのだから。
財産、幸せな家庭、問題の解決=神の祝福であると考えるのはあまりにも短絡。
もちろん、神の祝福の中で与えられたものであることは確かだが、中心ではない。
むしろ、おまけに過ぎない。


神の祝福の最も中心的なものは・・・
10節以降に現れている。

ヤコブ → イスラエル

「ヤコブ」という名は生まれた時に名付けられたもの。
双子の兄のかかとを持って生まれてきたことから「かかと」を意味する。
しかも「だます」という言葉の語幹が似ているそう。
ヤコブの過去の過ちを思い起こさせる。

「イスラエル」は、神であり人である謎の人物(受肉前のキリスト)と徹夜の格闘をした末、神より授かった名前。

ここでの祝福の時に、あえて名前のことを持ち出したことに注意したい。
「イスラエル」であること、神に選ばれ、神と向き合う者であること。
祝福の中心には、神に選ばれ、神と向き合う関係がある。


しかも、神様はヤコブにご自身を証言しておられる。
「わたしは全能の神である。」
神様がどのような方であるのかを知ること。
これは祝福の最も中心的なこと。


しかも、ヤコブへの祝福は、彼自身だけのものではない。
彼の子孫としてのイスラエル民族への祝福である。
さらには、全世界の祝福につながることを暗示している。
実際、数千年の歴史(旧約聖書の歴史とも言えるが)を経て、受け継がれていく。


後にイスラエルの子孫から生まれた方のことを思う。
その方は、イエス・キリスト。
このイエスという方のゆえに、福音(Good News)が今や世界中に届けられている。
イエス様の降誕を祝うクリスマスを間近に控え、改めて神様の祝福の計画のスケールを思う。



今年のクリスマス、神様を知るという最高の祝福が多くの方々の上にありますように!
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