(金剛界曼荼羅:Yahoo検索より転載)
少し頭を整理しようと思ったのですが、そうは簡単ではありませんでした。ということで、空海の3日目です。
密教の法身仏(ほっしんぶつ)が大日如来であること、そしてその世界を絵図で表現した物が曼荼羅図である
ことを説明してきましたが、それでは空海の真言密教がめざすものとは何か、それと真言密教の特徴的な世界観を
最後に見てみたいと思います。
真言密教の究極の目標、空海はそれを端的に「即身成仏」という言葉で表しています。
空海は自己がそのまま絶対者(大日如来)であることを現証することが、真言密教のあらゆる実践において究極とする
ものであると説いています。
そのためには、絶対者の偉大な慈悲のはたらきとわれわれの信心が合一することで、そのことを「加持(かじ)と呼びます。
そのため密教の独自な深秘(じんび)の瞑想が実践され、それを「三摩地(さんまじ)」と言います。
また、密教では「三密(さんみつ)加持」という実践法が行われます。これは絶対者がかって行ったと同じように、
密教信者が印を結び、真言を唱え、自己の心を絶対者と同一の瞑想の境地にすえることで、自己の全行為が絶対者の全行為と
合一し、ただちにこよなき完成が得られるとするものです。
密教で有名な「護摩(ごま)行」も奇跡を願って行うものではなく、自己の信心を絶対者の力を借りて、絶対者に近づき
両者が合一するために本来行われるものです。
以上、絶対者の理性、慈悲、知恵と自己の信心が合一することで、今の肉体のままで宗教的理想の境地に到達すると説いて
いるわけです。
それでは、最後に、真言密教の説く世界観を見てみたいと思います。その世界は、自然中心の肯定的な世界です。
一般的な仏教はその対象を人間としていますが、密教では「生きとし生けるものすべて」が対象です。動物にも植物にも心がある
と空海は説きます。釈迦から大日如来へ法身仏の移動は、人間崇拝から「自然崇拝」への思想の変化をもたらしました。このことは、
八百万の神を信仰する我が国の固有の信仰とも一致し、密教がわが国でも早くから定着する大きな要素ともなりました。
自然崇拝とともに見られる特徴は、「肯定的」な教義です。一般の仏教には常に死後と、否定の影が付いて回ります。「空」思想は
大乗仏教の根本教義ですが、その教義も「こだわり」を捨てることを説いています。そこには否定の影が見られます。
これに対して、密教では一般仏教で否定的にとらえられている教義のほとんどを肯定的にとられます。
まずは「生」です。「即身成仏」まさに死後ではなく、現世で仏になることが究極目標です。肉体の快楽さえも肯定しています。
不動明王は密教で初めて登場するか神ですが、仏教一般では戒められている憤怒の表情をしています。密教では、真理を実現させる
ための怒りは許されるのです。仏教一般では静かなる慈悲の笑いは許されますが、大笑いは禁じられます。それも、密教では楽しみかな
生命よ、と大笑いも許されます。色についてもそうです。一般仏教では白黒の2色ですが、密教では5色、つまり全ての色が許されます。
密教芸術は、絢爛豪華です。如来は通常裸形ですが、大日如来は菩薩形で絢爛に着飾っています。
長く死をみつめ、情感を抑えてきた仏教は、密教によって、肯定の思想へと大転換を図ったのです。
以上、うまくまとまりませんでしたが、よく理解できていない者が簡単にまとめようとしたところに無理があったようです。
しかもそれにお付き合いいただいた方には深く感謝いたします。
ただ、空海さんの真言密教、なんとなく面白いです。それは、これまでの仏教と違った「明るさ」が感じられます。それは、やはり
2年間の入唐で、世界の思想を学び、それを教義に取り入れ、あらゆるものを受容する心の広さ、世界宗教的な要素をもっている
からなのかもしれません。
大日如来、まさに太陽神、天照大御神にも擬せられるわけで、あらゆるものを包み込み、全てを明るく照らす、そんな教えが
空海さんの真言密教というふうにも感じます。
ノートの整理が終わったので、それをPC(word化)に取り込む作業があるのですが、それは日本編のすべてのノート作成作業が
終わった後最後の復習を兼ねて行う予定です。
というわけで、次は第10巻の「親鸞」です。出来れば、空海と同じぐらいのペースで終わらせたいと思います。その時にまた
良く分からない説明をしたいと思います。その時は、また、お付き合いください。