(その4)までで、道元の思想の根本が見えた気がします。それは、釈迦以来の仏教の教え(正伝)をインド、中国を経て道元が日本にもたらしたこと。そして、その正伝とは、まさに「只管打坐(しかんたざ)」であり、悟ってもなお修行を続ける「本証妙修(ほんしょうみょうしゅ)」だったわけです。
ではなぜ、「只管打坐」「本証妙修」なのか、それは道元自身の厳しい修行の中から得たもので、まさに「わからなければ、坐ってみろ!」ということになるのですが、その体験から出たものを言葉として著したものが、主著『正法眼蔵』だったわけです。
ということで、以下、『正法眼蔵』の内容、特にその中心をなす、「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻についてみてみたいと思います。
3.道元の思想
3.1.『正法眼蔵』と「現成公案」
(1)『正法眼蔵』の成立
『正法眼蔵』の構想時期については明確ではありません。しかし、今日の推定では、道元が永平寺に入った後示衆(じしゅ、一般大衆を指導すること)する回数が急に減っているため、そのころから諸巻の整理がはじめられ、まず七五巻が選ばれたようです。道元はさらに全巻を百巻にすべく、新たな書下ろしをはじめますが、その第十二巻目「八大人覚(はちだいにんがく)」が最後になっています。
(2)「現成公案」の概要
①成立と位置付け
道元の整理において、第一巻に配当されたのが「現成公案」でした。この巻は示衆ではなく、鎮西(ちんぜい、九州)在住の俗弟子楊光秀(ようこうしゅう)という人に「書き与えしもの」とされており、道元示寂の前年(1252年)に『正法眼蔵』に集録された旨の奥書があるとのことです。
この巻が巻頭にあるということは、この巻が教えのかなめであると道元自身が考えたことを意味しており、<現成公案>は道元によってえらびとられた<道得(どうて)*>であると言えます。
*道得:ことばどおり、道を得るつまりは修行してさとる、というのが本来の意味ですが、道元は「道」を言う、言葉といった意味で使っており、ここでは、「ことばであらわす」という意味あいになります。つまりは、道元が自らの体験をことばで著したものが『正法眼蔵』だったわけです。
②「現成公案」の由来と道元の立場
<現成公案>は、<古則公案>に由来しています。<古則公案>は、古則を公案とする禅の修行法である<公案禅>で利用されたものです。「公案」は本来政府の公文書の意味で、「古則」は古人、つまり仏祖の行履(あんり、日常の一切の行為=行住坐臥)・言行で修行の手本とするもの、を意味します。
道元もこの<古則公案>を大いに利用していますが、<公案禅>の大成者といわれる大慧宗杲(だいえそうこう)などの考えに反対しています。それは「さとりをあてにしての坐禅のやり方」や、公案の工夫を手段としての<大悟>だとか<見性(けんしょう)*>などに反対したのです。
*見性:自己の本性、本性を発見すること。一度悟ったものは普通の人間より高い人間になれるという考え方。
3.2.「現成公案」の意義
(1)「現成公案」の意味
<現成公案>は<現成>と<公案>に分解でき、つまりは「公案が現成す」となりです。<公案>は法性、仏であり、したがって、「ほとけがあらわれる」となりますが、「あらわれる」は生ずるのではなく、見えなかったものが見えるようになることです。仏教一般の「現証(げんしょう)、現前(げんぜん)、顕現(けんげん)」などと同意義で、つまりは、<現成公案>は「現象」+「本体」といった関係にあることになります。
(2)「現成公案」の世界と実践的要請
①『華厳経』の<法界>と<現成公案>
『華厳経』には仏教世界をあらわす用語として<法界(ほっかい)*1>があります。<法界>は、<法性(ほっしょう)>(法の本性(諸法の実相))をあらわすと同時に、<一切法の世界>(あらゆる現象(諸法即実相))を意味します。つまり、<法界>=「本体」+「現象」=<公案>+<現成>=<現成公案>ということになります。
ここで、この法界における諸現象、つまり諸法はそれ自体なんら実体を伴わないもので、そこから<現成公案>の世界も、<諸法無我><空>の世界ととらえることができます。
*1法界:すべてを肯定する世界であり、一切は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ*2)のあらわれである、とする『華厳経』の根本真理。
*2毘盧遮那仏:仏教真理を体現する実体を伴わない仏=法身仏(ほっしんぶつ)。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏。
②<現成>の実践的要請=<本証妙修>
一切は毘盧遮那仏のあらわれであるこの法界=現成公案は、「修行あり、生(しょう)あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」であり、一方、迷悟あり、差別的対立のある世界、いやがっても草の生える世界、そのままが仏法であり、真理の顕現する世界であるわけです。しかし、これをそのままにしておくことは許されないわけです。
公案は現成しているがなお、公案を現成せしめなければならない、一切は仏であるが一切を仏せしめなければならない、つまり、「現成公案」の巻でも道元は<本証妙修>を説いているわけです。その事例を「現成公案」の巻末にある麻谷宝徹(まよくほうてつ、馬祖の弟子。八ー九世紀の人。)の話にみることができます。(少し長いですがここにそのまま示します)
「 麻谷がある時、扇子をつかっているところに僧がやってきて質問した。
『仏教の教理によると、風性(ふうしょう)は常住であって、どこにでもないところはないということです。それなのに、和尚はどうして、ことさら扇子をつかうのですか』
麻谷は言った。
『汝は風性常住ということはわかったらしいが、まだ、無処不周(むしょふしゅう、どこにでもないところはないの意味)ということがわかちゃいないぞ』
そこで僧は再問した。
『では無処不周ってどういう道理です』
麻谷は無言で扇子をあおいでいた。僧は黙って礼拝した。
おそらく説明はいるまい。しかし、道元は親切に教えてくれるのです。
『”常住あればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべき”といふは、常住をも知らず、風性をもしらぬなり』
『風性常住なるがゆゑに、仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河(ガンジス川)の酥酪(そらく、発酵食品)を参熟せり』」
本書では、さらに以下のように結論の説明がされています。
「証究(しょうきゅう)すみやかに現成すといえども、
密有(みつう、現成と対立するあり方、つまり隠れひそんでいる状態=公案)かならずしも現成にあらず
見成(げんじょう、現成におなじ)これ何必(かひつ)なり 」
→公案はたとえさとりを完成したといっても、いつもそこにそれと知れるように現成しているとはかぎらない。またそこに現成しているもは、それ以外にありようがないと断定できるものではない。と説いているわけです。
(3)<現成>と<無我><無常>の理
ここで、現成せしめるための修行の心構えと、<現成>する諸法のあり方をを整理すると以下のようになります。
①修行の心構え
一言では「自己をわすれること」である。万法を悟ろうとすれば、万法は逃げていく。万法の内に入りこんで、そこになりきることが大事である。これは無我の教えである。悟る自分があるということをわすれたもの、それが仏である。これは仏教の真理の内容としての<諸法無我>の体得ということである。としています。
②<現成>する諸法のあり方
つまりは、生滅(しょうめつ)・生起(しょうき)・縁起(えんぎ)の起や生のもつ意味は何かということです。
起や生は、滅の対立概念である。この生滅があり、生死輪廻(しょうじりんね)があるあり方が<縁起>であるが、それは時間的変化性であり、つまりは<諸行無常>ということである。としています。
無常なるゆえの生や起と、常住なる何かはどうつながるのか。以下、時間概念である「無常」「起」についての説明に入っていきます。
3.3.道元の無我
(1)仏教一般の無我とは
「無常」「起」の前に道元の無我について簡単に触れておきます。
仏教以外のインドの伝統的な宗教(外道)では我(アートマン)の常住を主張します。これに対して仏教は無我を説きます。常住不変の実体は存在しないとしているのです。我々の存在は身体の要素(仏教ではこれを「五蘊」と呼びます)が諸縁によって集成されたもの(つまり縁起したもの)だとしています。そして無我の理を知る時、これがさとりであり、悟ったものには我執がないとしているのです。
(2)道元の無我
一般的な仏教の無我に対して、道元は次のように説きます。
「我はないといいながら、心性常住という。これは大いなる誤りである。常住不変の本性(<性>)とか<心>があり、自己だと考えるのは、すべて外道の有我(うが)の見である」と(『正法眼蔵』「弁道話」より)。
「*即心是仏(そくしんぜぶつ)というと、心性が常住でそれが仏だと思うのはとんでもない間違いである」と(『正法眼蔵』「即心是仏」より)。
道元は性や心があるごとく説く「見性(けんしょう)」の語のある『六祖檀経』を偽経といい、同一派(大慧の一派)をきらっています。
「即心是仏とは、発心(ほっしん)・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず」(『正法眼蔵』「即心是仏」より)と、教えています。つまり、実践の裏付けがなければ即心是仏とはいえないと説いているわけです。そもそも、心を身体と区分し、二つと考えるのは間違いで、<即心是仏>=<即身即仏>であり、<身心一如(しんじんいちにょ)>が仏教の正しい見方です。
『「人々の分上にゆたかにそなわれりといえども、修せざるには現れず、証せざるにはうることなし」であります。しかも道元さまは「ただ我わが身をも、心をも、はなち忘れて、仏の家になげいれて、仏の方より行われてこれにしたがいてもてゆくとき、力をもいれず、心をもついやさずして仏となる」と示されて、無我の三昧を説かれました。』(曹洞宗東海管区教化センターHP「正法眼蔵即心是仏の巻より」一部参照)
*即心是仏:一般的な解釈では、文字どうり、心の本体は仏と異なるものではなく、この心がそのまま仏であるということ。
なかなかうまくまとまらず、またまた長くなってしまいました。今日はここまでとします。
次回(その6)では、道元の思想の核となる部分を何とか整理して、まとめにしたいと思っています。しばらく、お待ちください。
ではなぜ、「只管打坐」「本証妙修」なのか、それは道元自身の厳しい修行の中から得たもので、まさに「わからなければ、坐ってみろ!」ということになるのですが、その体験から出たものを言葉として著したものが、主著『正法眼蔵』だったわけです。
ということで、以下、『正法眼蔵』の内容、特にその中心をなす、「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻についてみてみたいと思います。
3.道元の思想
3.1.『正法眼蔵』と「現成公案」
(1)『正法眼蔵』の成立
『正法眼蔵』の構想時期については明確ではありません。しかし、今日の推定では、道元が永平寺に入った後示衆(じしゅ、一般大衆を指導すること)する回数が急に減っているため、そのころから諸巻の整理がはじめられ、まず七五巻が選ばれたようです。道元はさらに全巻を百巻にすべく、新たな書下ろしをはじめますが、その第十二巻目「八大人覚(はちだいにんがく)」が最後になっています。
(2)「現成公案」の概要
①成立と位置付け
道元の整理において、第一巻に配当されたのが「現成公案」でした。この巻は示衆ではなく、鎮西(ちんぜい、九州)在住の俗弟子楊光秀(ようこうしゅう)という人に「書き与えしもの」とされており、道元示寂の前年(1252年)に『正法眼蔵』に集録された旨の奥書があるとのことです。
この巻が巻頭にあるということは、この巻が教えのかなめであると道元自身が考えたことを意味しており、<現成公案>は道元によってえらびとられた<道得(どうて)*>であると言えます。
*道得:ことばどおり、道を得るつまりは修行してさとる、というのが本来の意味ですが、道元は「道」を言う、言葉といった意味で使っており、ここでは、「ことばであらわす」という意味あいになります。つまりは、道元が自らの体験をことばで著したものが『正法眼蔵』だったわけです。
②「現成公案」の由来と道元の立場
<現成公案>は、<古則公案>に由来しています。<古則公案>は、古則を公案とする禅の修行法である<公案禅>で利用されたものです。「公案」は本来政府の公文書の意味で、「古則」は古人、つまり仏祖の行履(あんり、日常の一切の行為=行住坐臥)・言行で修行の手本とするもの、を意味します。
道元もこの<古則公案>を大いに利用していますが、<公案禅>の大成者といわれる大慧宗杲(だいえそうこう)などの考えに反対しています。それは「さとりをあてにしての坐禅のやり方」や、公案の工夫を手段としての<大悟>だとか<見性(けんしょう)*>などに反対したのです。
*見性:自己の本性、本性を発見すること。一度悟ったものは普通の人間より高い人間になれるという考え方。
3.2.「現成公案」の意義
(1)「現成公案」の意味
<現成公案>は<現成>と<公案>に分解でき、つまりは「公案が現成す」となりです。<公案>は法性、仏であり、したがって、「ほとけがあらわれる」となりますが、「あらわれる」は生ずるのではなく、見えなかったものが見えるようになることです。仏教一般の「現証(げんしょう)、現前(げんぜん)、顕現(けんげん)」などと同意義で、つまりは、<現成公案>は「現象」+「本体」といった関係にあることになります。
(2)「現成公案」の世界と実践的要請
①『華厳経』の<法界>と<現成公案>
『華厳経』には仏教世界をあらわす用語として<法界(ほっかい)*1>があります。<法界>は、<法性(ほっしょう)>(法の本性(諸法の実相))をあらわすと同時に、<一切法の世界>(あらゆる現象(諸法即実相))を意味します。つまり、<法界>=「本体」+「現象」=<公案>+<現成>=<現成公案>ということになります。
ここで、この法界における諸現象、つまり諸法はそれ自体なんら実体を伴わないもので、そこから<現成公案>の世界も、<諸法無我><空>の世界ととらえることができます。
*1法界:すべてを肯定する世界であり、一切は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ*2)のあらわれである、とする『華厳経』の根本真理。
*2毘盧遮那仏:仏教真理を体現する実体を伴わない仏=法身仏(ほっしんぶつ)。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏。
②<現成>の実践的要請=<本証妙修>
一切は毘盧遮那仏のあらわれであるこの法界=現成公案は、「修行あり、生(しょう)あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」であり、一方、迷悟あり、差別的対立のある世界、いやがっても草の生える世界、そのままが仏法であり、真理の顕現する世界であるわけです。しかし、これをそのままにしておくことは許されないわけです。
公案は現成しているがなお、公案を現成せしめなければならない、一切は仏であるが一切を仏せしめなければならない、つまり、「現成公案」の巻でも道元は<本証妙修>を説いているわけです。その事例を「現成公案」の巻末にある麻谷宝徹(まよくほうてつ、馬祖の弟子。八ー九世紀の人。)の話にみることができます。(少し長いですがここにそのまま示します)
「 麻谷がある時、扇子をつかっているところに僧がやってきて質問した。
『仏教の教理によると、風性(ふうしょう)は常住であって、どこにでもないところはないということです。それなのに、和尚はどうして、ことさら扇子をつかうのですか』
麻谷は言った。
『汝は風性常住ということはわかったらしいが、まだ、無処不周(むしょふしゅう、どこにでもないところはないの意味)ということがわかちゃいないぞ』
そこで僧は再問した。
『では無処不周ってどういう道理です』
麻谷は無言で扇子をあおいでいた。僧は黙って礼拝した。
おそらく説明はいるまい。しかし、道元は親切に教えてくれるのです。
『”常住あればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべき”といふは、常住をも知らず、風性をもしらぬなり』
『風性常住なるがゆゑに、仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河(ガンジス川)の酥酪(そらく、発酵食品)を参熟せり』」
本書では、さらに以下のように結論の説明がされています。
「証究(しょうきゅう)すみやかに現成すといえども、
密有(みつう、現成と対立するあり方、つまり隠れひそんでいる状態=公案)かならずしも現成にあらず
見成(げんじょう、現成におなじ)これ何必(かひつ)なり 」
→公案はたとえさとりを完成したといっても、いつもそこにそれと知れるように現成しているとはかぎらない。またそこに現成しているもは、それ以外にありようがないと断定できるものではない。と説いているわけです。
(3)<現成>と<無我><無常>の理
ここで、現成せしめるための修行の心構えと、<現成>する諸法のあり方をを整理すると以下のようになります。
①修行の心構え
一言では「自己をわすれること」である。万法を悟ろうとすれば、万法は逃げていく。万法の内に入りこんで、そこになりきることが大事である。これは無我の教えである。悟る自分があるということをわすれたもの、それが仏である。これは仏教の真理の内容としての<諸法無我>の体得ということである。としています。
②<現成>する諸法のあり方
つまりは、生滅(しょうめつ)・生起(しょうき)・縁起(えんぎ)の起や生のもつ意味は何かということです。
起や生は、滅の対立概念である。この生滅があり、生死輪廻(しょうじりんね)があるあり方が<縁起>であるが、それは時間的変化性であり、つまりは<諸行無常>ということである。としています。
無常なるゆえの生や起と、常住なる何かはどうつながるのか。以下、時間概念である「無常」「起」についての説明に入っていきます。
3.3.道元の無我
(1)仏教一般の無我とは
「無常」「起」の前に道元の無我について簡単に触れておきます。
仏教以外のインドの伝統的な宗教(外道)では我(アートマン)の常住を主張します。これに対して仏教は無我を説きます。常住不変の実体は存在しないとしているのです。我々の存在は身体の要素(仏教ではこれを「五蘊」と呼びます)が諸縁によって集成されたもの(つまり縁起したもの)だとしています。そして無我の理を知る時、これがさとりであり、悟ったものには我執がないとしているのです。
(2)道元の無我
一般的な仏教の無我に対して、道元は次のように説きます。
「我はないといいながら、心性常住という。これは大いなる誤りである。常住不変の本性(<性>)とか<心>があり、自己だと考えるのは、すべて外道の有我(うが)の見である」と(『正法眼蔵』「弁道話」より)。
「*即心是仏(そくしんぜぶつ)というと、心性が常住でそれが仏だと思うのはとんでもない間違いである」と(『正法眼蔵』「即心是仏」より)。
道元は性や心があるごとく説く「見性(けんしょう)」の語のある『六祖檀経』を偽経といい、同一派(大慧の一派)をきらっています。
「即心是仏とは、発心(ほっしん)・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず」(『正法眼蔵』「即心是仏」より)と、教えています。つまり、実践の裏付けがなければ即心是仏とはいえないと説いているわけです。そもそも、心を身体と区分し、二つと考えるのは間違いで、<即心是仏>=<即身即仏>であり、<身心一如(しんじんいちにょ)>が仏教の正しい見方です。
『「人々の分上にゆたかにそなわれりといえども、修せざるには現れず、証せざるにはうることなし」であります。しかも道元さまは「ただ我わが身をも、心をも、はなち忘れて、仏の家になげいれて、仏の方より行われてこれにしたがいてもてゆくとき、力をもいれず、心をもついやさずして仏となる」と示されて、無我の三昧を説かれました。』(曹洞宗東海管区教化センターHP「正法眼蔵即心是仏の巻より」一部参照)
*即心是仏:一般的な解釈では、文字どうり、心の本体は仏と異なるものではなく、この心がそのまま仏であるということ。
なかなかうまくまとまらず、またまた長くなってしまいました。今日はここまでとします。
次回(その6)では、道元の思想の核となる部分を何とか整理して、まとめにしたいと思っています。しばらく、お待ちください。