前回2011年の1月と2月のシリアについて書いた。シリアでは、アラブの春は起きそうもなかった。2010年12月チュニジアで始まった大衆蜂起は、その後アラブ世界を席けんしたが、シリアは大衆蜂起と無縁だった。3月になってもダマスカスは平穏だった。ムスリム同胞団の2大拠点、アレッポとハマもおとなしくしていた。1978年ー1982年、アレッポとハマのムスリム同胞団は大規模な反乱を起こした。この時政権は容赦ない方法で反乱を鎮圧した。政府軍の残虐性を、シリア国民は覚えており、このような事件の再発を望まなかった。
3月半ばまでシリアが平穏だったのは、アサド大統領の就任時の人気がまだ残っていたからである。彼は英国在住の経験があり、シリアの強権的な体制内では異質な人間であり、自由主義的な思想の持ち主と受けとめられていた。アラブの指導者は一般的にごう慢であるが、アサドは謙虚であり、市民的であった。
またアサド大統領はシリアだけでなくアラブ世界全体で人気があった。アラブ諸国がイスラエルと妥協する中で、彼はイスラエルと戦う最後の戦士だった。パレスチナを奪ったイスラエルは、アラブ土地を侵略した者であり、アラブの敵とみられていた。これと戦うことが、アラブの指導者の条件とされていた。またアサドは米帝国に屈しなかった。彼は単にシリアの指導者であるだけでなく、アラブの愛国者として国際政治に対処していた。
就任時に彼が約束した改革はあまり進んでいなかったが、政権内の守旧派が改革を妨害していると考えられていた。長期間政権にあったチュニジアのベン・アリやエジプトのムバラクとアサドは違っていた。
しかしシリアが平穏だったことには、もう一つ別の理由がある。国民は専制政治の重圧の下に生きており、政府批判の声を上げることは極めて危険である。シリアには反体制派は存在しない。バース党による一党独裁のもとで、政治的反対派は厳しく弾圧される。反対派は存在することを許されない。逮捕と拷問、時には死を覚悟しなければ、抗議のデモに参加できない。
1982年の血の弾圧の記憶がまだ残っている。1982年、ハマでムスリム同胞団が反乱を起こした時、ハフェズ・アサド大統領の治安部隊はこれを徹底的に弾圧した。数万人の住民が死亡した。
1963年バース党が政権を奪取した時に出された戒厳令が、現在まで続いている。1990年代以降緩和されたが、国民は相変わらず秘密警察(ムハバラート)の監視下にあり、政府に批判的な人物とみなされれば令状なしに逮捕される。ムハバラートは犯罪に関する法律を超えた権限を有しており、犯罪の事実がなくても、予防拘束ができる。逮捕された市民は弁護士を呼ぶこともできず、無実を訴える手段がない。逮捕後は必ず拷問され、最悪の場合裁判なしに処刑される。
シリアは戒厳令下にあり、たとえ国民に不満があったとしても、要望を述べることにとどめなければならず、政府を批判することは許されなかった。このことに対する不満は人々の心の中でくすぶっていた。ダマスカスの住民の大半はそこそこの生活ができていたので、政治的不自由を我慢することにした。
3月6日にダラアの少年たちが政府を批判する落書きをし、逮捕されたことを前回書いた。
親たちが警察署に行き、少年たち釈放を願い出たが、警察の返事は「息子のことはあきらめろ。また子供をつくればよいではないか」というものだった。
政治犯の逮捕と拷問は以前から国民から恨まれていた。逮捕された子供たちが拷問されているという情報があり、母親たちは即座の釈放を願った。親たちの訴えに共感する住民が増えていき、3月18日のダラアのデモはニュースに値する規模となった。まだアラブの春を予感させる程ではないが、シリアで最初の大きなデモとなった。死者が出たこともあり、世界のメディアも取り上げた。
これについて書く前に、3月半ばのダマスカス状況を簡単に確認しておきたい。
<3月15日・16日のダマスカス>
3月15日、ダマスカスとアレッポでデモが起きたが、参加者はいずれも数百人だけだった。
翌日(16日)、ダマスカスで再び抗議デモが行なわれた。人々は内務省の近くの広場に集まり、政治犯の釈放を要求した。警官が警棒で彼らをなぐり、数十人を逮捕した。
平和なデモに対し、官憲の取り締まりは乱暴であったが、限度は超えていない。このデモにはダラア出身者も参加しており、彼らは故郷で起きていることを参加者に伝えた。ダラアが爆発すればダマスカスに伝播する可能性はあったが、2011年にはそれが起きない。
15日と16日、ダママスカスでは、「平和なデモをする人々」が射殺されるようなことはなかった。
ダラアでも、途中から介入した中央政府の対応は柔軟であり、ダラアの政治警察の方針を翻し、少年たちを釈放した。しかし拷問はすでに行われており、取り返しがつかなかった。拷問は少年たちの話によって知っただけでなく、帰ってきた少年多たちの身体にまざまざと虐待の跡が残っていた。中央政府と精鋭部隊が乗り出したときはすでに遅れで、ダラアの反乱を抑えることは不可能だった。
責められるべきは最初の対応に失敗し、部族を怒らせてしまったダラアの政治警察である。部族の子供たちを非道に扱い、部族を敵にまわしてしまった。ダラアの政治警察は部族に対して慎重さを欠き、彼らを怒らせてしまった。西欧の先進国では数百年かけて部族は消滅したが、シリアでは現在でも部族が重要な政治単位である。
3月6日以後のダラアについて、前回当事者の少年の回想を訳したが、今回、アルジャジーラの記事を訳す。同じ時期について書かれているが、シリア人ジャーナリストがダラアで取材したものであり、ダラアが反乱に至った過程がよくわかる。彼はダラアが危機的な時期の直後にダラアに入り、住民に聞き取りをした。この時期について、非常に少ない現地報告である。
=============< Inside Deraa >===========
著者: Hugh Macleodとシリア内の報告者
2011年4月19日
今ダラアに外部の人間は入れない。葬儀に参列する友人と親族しか町に入れない。シリア人ジャーナリストは最初の検問所で、妻の従弟の夫の死を告げ、通過を許可された。市内に入るまで3つの検問所があり、警官が車の中をのぞきこみ、カメラ、録音機、パソコンなどがないか検査した。ダラアの死者と町の破壊について報道することは禁止されていた。ダラアはヨルダン国境に近い古都である。主な産業は農業であるが、干ばつにより衰退が加速している。
シリアの内乱のきっかけとなった事件が、3月6日この町で起きた。
15人の少年がアラブ革命のスローガンを壁に書いた。「人々はシリアの政権が倒れることを願っている」。カイロとチュニスの様子をテレビで見て、真似をしたのである。少年たちは逮捕され、拷問された。
10ー15歳の少年たちは、地元の政治警察の留置所に入れられた。ここの政治警察の長官・アテフ・ナジーブ将軍はアサド大統領のいとこである。
陰気な尋問室で子供たちは殴られて出血し、焼けどさせられ、爪をはがされた。子供に対してこのような暴行を行ったのは政権に忠実なおとなたちである。無制限な暴力により、政権は崩壊の種をまいている。
人権監視団は最近1か月逮捕され、拷問を受けたデモ参加者数百人のリストを作成した。
ダラアの出来事はシリアの蜂起の象徴である。無法な政治系警察が子供を虐待したことに対し、親族と住民が抗議した。治安部隊によって殺害されるデモ参加者の数が増えるにつれ、反乱のうねりは拡大していった。
《血の結びつき》
複数ある治安部隊の牢獄で政治犯が死ぬことに、シリアの国民は慣れている。彼らは50年近く戒厳令の中で暮らしている。
しかし1か月前逮捕された子供たちはほとんどがダラアの大家族に属していた。それらはバイアジド家(The Baiazids)、ガワブラ家(the Gawabras)、マサルマ家( the Masalmas )ソシテズービ家(the Zoubis)の4家族である。
シリア南部は部族社会の伝統が強く、家族に対する忠誠と、家族の名誉が尊重されている。
少年たちが行方不明になり、家族はあちこち訪ね回り、市役所にも相談したが、見つからなかった。金曜日の礼拝の後、両親と親族とは宗教指導者に伴われ、ダラアの知事であるファイサル・カルスームの家まで行進し、抗議した。
知事の護衛は彼らを追い払おうとしたが、両親たちと押し問答になったので、警察を呼んだ。到着した警察は放水と催涙ガスで抗議者たちを攻撃した。その後武装した政治警察が現れて、抗議する人々に発砲した。
「大勢の治安部隊がやってきて、人々に発砲し、数人が負傷した」と逮捕された少年の親戚であるイブラヒムが言う。
「血が流れるのを見て、人々は逆上した。我々は全員部族の一員であり、大家族に所属している。我々にとって、血の団結は何よりも大切だ」。
政治警察が発砲したというニュースがダラア市内に広まると、最初200人だった集会は、すぐに数百人に増えた。
「我々は平和な方法で、子供たちの釈放を要求していた。しかし彼らの返答は銃撃だった」とイブラヒムは語った。「現在我々は治安部隊といかなる妥協もできない」。
逮捕された少年の親せきである、もう一人が証言する。「政治警察のナジブ将軍が家族の代表者を侮辱するのを見た」。
28歳のムハンマドが言う。「負傷者を病院に運ぼうとすると、治安部隊が妨害した」。ムハンマドはドバイで働いていたが、2年前ダラアに戻った。彼の兄弟はデモで負傷し、義理の兄弟は死亡した。
確認されていない噂だが、ナジブ将軍が少年の家族に次のように言ったという。「子供たちのことはあきらめろ。また子供をつくればよいではないか」。
《治安部隊がモスクを襲撃》
3月18日、数百人の市民が集まり、政治腐敗の一掃、少年たちの釈放、政治的自由の拡大を要求した。治安部隊が抗議者たちに発砲し、3名が死亡した。
2日後怒った民衆がバース党の事務所がある建物に火をつけた。人々は初めて「自由」と「戒厳令の撤廃」を要求した。
3月21日、アサド大統領は自らの代理として、ダラアに親族がいる高官たちをダラアに送り、市民たちの怒りをしずめようとした。大統領が派遣した使節は、市民に発砲した警官を裁くことを部族長たちに確約した。
使節団のメンバーの一人は、ファイサル・メクダド外務副大臣だった。彼の以前の上司であり、現在副大統領となっているファルーク・アルシャラアはダラアしゅっしんである。
しかし使節団の最も重要なメンバーは、軍事情報部の高官ラスタム・ハザリだった。レバノンのハリリ首相が暗殺された時、彼はレバノンに駐在する情報員のトップだった。国際捜査により彼は容疑者として訊問された。
アサド政権中枢にいるハザリはダラア出身であり、事態を鎮静化することを部族長たちに保証するのに適任だった。
政府の譲歩の姿勢を示すため、彼は15人の少年を釈放した。
少年たちは2週間の拘留から解放されたが、拷問のあとが著しかった。息子たちの拷問の形跡を目にした部族の指導者たちは怒りを新たにした。政権を批判するデモの参加者は数千人に増えた。
ハザリと部族長たちとの会見の48時間後の3月23日の早朝、治安部隊はオマリ・モスクを襲撃した。オマリ・モスクは拡大する反政府運動の拠点になっていた。
治安部隊は最初に閃光弾を投げ、続いて射撃を開始した。5人が死亡した。犠牲者の一人は、以前に負傷した人々を治療していた医師だった。
モスク襲撃直後のyoutube動画では、私服の銃撃者たちがモスクの中を行進している。あたりには血のあとが残っている。
モスクを襲撃したのは特殊部隊だ、と地元の人は言う。大統領の弟マヘル・アサドが指揮下の陸軍第四師団とも言われている。
「ダラアの人々を殺した者を、大統領が罰してほしい」ムハンマドの母が悲しみと怒りに震えながら言った。彼女はアラビア語の教師である。
「私たちは現在の大統領の父を支持していた。ハフェズ・アサド大統領は我々に感謝し、ズービを首相に、シャラアを外務大臣に任命した。スレイマン・カッダーはバース党の指導者だった。それなのに息子のバシャールは我々の息子たちである軍隊を差し向け、兄弟や姉妹を殺した。裏切り者とは自分の兄弟を殺す人間だ」。
モスク襲撃の翌日、カルスーム知事が罷免された。彼は市民から恨まれており、彼の家は放火され、消失した。ナジブ将軍も更迭された。2週間後、アサド大統領は2人を裁判にかけ、市民の抗議を引き起こした経緯と抗議する市民への対処が適切だったか、取り調べることにした。
しかし2人の責任者を処分したにもかかわらず、住民の怒りをしずめることはできなかった。
ムハンマドは言う。「どうして大統領自身がダラアに来て、謝罪しなかったのか。我々は100%シリア人だ。彼は真の同情と敬意を我々に示すべきだ」。
《葬式が抗議集会に転換》
ダラアの抗議は急速に拡大した。1日前に殺された人の葬儀は政府に対する抗議集会に転化した。すると治安部隊が来て発砲した。死者さらに多くの死者が出て、次の葬儀と抗議集会の人数が増えた。こうした悲劇的な悪循環で抗議運動が拡大した。
3月24日、政府は税金を減額し、公務員の月給与を1500シリアポンド(32.6ドル)増額する政令を出した。
翌日のダラアでは数万人が葬儀に参加し、叫んだ。「パンなどいらない。人としての尊厳が欲しい」。治安部隊が発砲し、15人死亡した。
怒った者たちがハフェズ・アサドの像を倒した。前大統領は国民から恐れられ、これまでは小声でさえ悪口を言う者はいなかった。
現大統領の写真は引きちぎられ、燃やされた。
ダラア市内と郊外の1週間のデモで、55人が治安部隊によって殺された。シリア全国で、ダラアへの連帯が合言葉となった。「われわれの血と心をダラアにささげる」。
《外国の陰謀》
国内の危機についての最初の演説で、アサド大統領は「外国の陰謀による反乱だ」と述べた。「ダラアで死んだ人々は国内安定のための犠牲だ」。
この演説は犠牲者の家族を怒らせた。モハンマドは言う。
「国家のための犠牲だと言いながら、アサドは国会で議員たち共に黙とうをしなかった。ダラで、軍と警察は我々を、まるでイスラエルのスパイのような裏切り者として扱っている。軍隊はイスラエルと戦ってゴラン高原を奪い返すべきなのに、我々市民を殺すために戦車と戦闘ヘリを送っている」。
4月18日は抗議が始まって4回目の金曜日である。この日ダラアの通りでの抗議の声は怒りの頂点に達していた。「おい、マヘル(エリート師団の指揮官)。卑怯者。お前の犬たちをゴランへ連れて行け」。この日抗議する市民25名が死亡した。
1週間後、ダラアの代表がアサド大統領と直接会談した。
しかしシリアの反乱の中心的存在となったダラアの市民は安易に妥協する考えはなかった。以前ダラアの市民は息子たちを政府の高い地位に送っていることを誇りにしていたが、今や彼らは反政府の急先鋒となった。
ダラアの活動家のアイマンは述べた。
「新しい道路や病院を造ってやればダラアの市民は軟化すだろう、と政府は考えている。違う。我々の望みは、戒厳令の撤廃だ。そして政治犯全員を釈放し、ヨルダンやサウジアラビアなどに住んでいる家族がシリアに帰れるようにすることだ。許可を申請しなくても、土地を売り買いできるよになりたい。
私の叔父はムスリム同胞団に所属していると疑われており、サウジアラビアに住んでいる。息子に会えるようにと、祖母は毎日祈っていたが、会えずに死んでしまった。我々がほしいのは自由だ」。
=============================(アルジャジーラ終了)