シリア内戦はユーゴ内戦を超えて悲惨なものとなった。3回の対外戦争をしたイラクと同ようになった。イラクは1980年から88年までのイランとの戦争で疲弊した。痛手から立ち直る間もなく、1991年湾岸戦争となり、10年間の経済制裁を受けた。2003年再び米国との戦争になった。イラクは30年間悲惨な状態にある。
シリアでは、死者数が30万を超え、国民の半数が難民となった。
シリア内戦の原因を考えずにいられない。革命は外国との大戦争と同じく悲惨な結果に終わるというのが私の持論だが、2011年のエジプトとチュニジアの革命は比較的傷が浅くてすんでいる。シリアの場合どうしてこうなったのか、その原因を知りたい。
「アサドの治安部隊は平和なデモをする市民を殺害した」。怒った市民が、自由シリア軍に参加した。これがシリア内戦の発端の定説となっている。しかしこれには落とし穴がある。デモ隊の背後にスナイパーが潜んでいれば、平和なデモではありえない。
アサド大統領は「平和なデモ」という定説に反論している。「デモは最初から平和的ではなかった。多くの兵士が死んでいる」。
2011年シリア駐在米大使だったロバート・フォードは後に述べている。「デモ参加者は逮捕を恐れており、彼らに逃げる時間を与えるため、治安部隊に向かって発砲した」。
市民の抗議行動の最初の段階で、治安部隊の兵士が射殺されれば、以後デモの取り締まりは容赦のないものとなる。少人数の抗議行動は除き、ダラアで最初の大きなデモとなったのは3月18日である。3日後の20日のデモで、デモ参加者の死者1名に対し、治安部隊の隊員7名が死亡している。このショッキングな事実は闇に葬られている。
確かにシリア政府はデモ参加者に対して厳しいが、ぎりぎりの節度はあり、一線を超えてはいなかった。それがある時点で変化した。その実際の例がある。デリゾール出身のシリア人が「シリア日記」の著者(日本人)に手紙を送ってきた。彼は、逮捕され、拷問を受けたが、釈放されている。しばらくして逮捕された者は処刑されるようになった。彼は既にサウジに逃れていたので、逮捕と処刑を免れている。この手紙は既に紹介したが、前半を再び引用する。
=======「シリア日記:デリゾール」====
私はシリアのデリゾール出身です。
年齢は38歳。
アサド政権に迫害され、仕事を失いました。私だけではなく、政府に反抗する人間は皆同じ目に遭っていました。
このため、反体制デモを行うことに決めました。私は革命開始当初からデモに参加し、デリゾールで最初に逮捕された人々の一人です。
革命初期に、反体制デモに参加した罪で4回逮捕されました。
その後、反体制派の衛星テレビ数局の特派員として働き、逮捕や拷問、殺害現場の写真の撮影を行っていたため、また逮捕されました。釈放されたとき、私は何箇所も骨折した状態でした。
そして驚いたことに、私が刑務所にいた間、彼らは私の事務所と自宅に侵入し、電気製品や金品、公式書類等を全て略奪していたのです。
サウジアラビアのビザが下りたので、私は治療のため同国へ赴きました。やがて自由シリア軍がデリゾールに進軍しましたが、これを阻もうとする政府軍によって、住居が破壊されて住民が路頭に迷い、民家や公的施設が略奪されました。
そして、政府軍は反体制派デモ参加者リストをもとに、私の住んでいた地区の若者を集めました。集められた若者たちは処刑され、その遺体は家族の面前で焼かれました。
私の名前もデモ参加者リストの中にありましたが、私はその時サウジアラビアにいたので処刑を免れました。
============(「デリゾールからの手紙」終了)
「治安部隊が平和なデモに発砲した」とする説にウィキペディアは疑問を投げかけている。
======Civil uprising prior to the Syrian Civil War=========
大衆の抗議運動に加え、武装した外部者が潜んでいたことが記録に残っている。当時の大手メディアはこの事実を無視した。武装グループは治安部隊を挑発し、大衆デモの暴力的な鎮圧に向かわせた。
武装グループはシリア各地で政府軍兵士を巧妙に襲撃した。シリアに武装テロリストが侵入しているという政権の主張には根拠がある。
====================(ウィキ終了)
内戦に発展するとは誰も予想していなかった2011年について、正反対の見方がある。どちらが正しいのか、事実を知るため、2011年の出来事を振り返ってみたい。
<2011年1月ー2月>
チュニジア・リビヤ・エジプトでアラブの春が起きても、シリアの首都ダマスカスは平穏だった。政府は自国でアラブの春は起きないと自信を持っていた。第2の都市アレッポも平穏であった。1月から3月半ばにかけてシリアでもデモが起きたが、集まった人数が少なく、シリア政府の自信を裏付けていた。
2月3日、フェイス・ブックやツィッターなどインターネットを通じて、デモが呼びかけられた。翌日4日を「怒りの日」と定め、アサド政権に対する抗議に集まろう、というものだった。4日にダマスカスに集まったのは、30人ほどだった。
10日後の2月11日エジプトのムバラク大統領が退陣した。その日の夕方、ダマスカスの橋に落書きが書かれていた。「お医者さん、次はお前だ」。アサド大統領は二男であり、ダマスカス大学の医学部を卒業し、眼科医になるつもりでロンドンで研修していた。しかし長男が交通事故で急死し、二男のバシャールが父ハフェズ・アサドの後を継ぐことになった。
この落書きは後に有名になったが、これは何事もなく過ぎ去った。
<3月:ダラアの落書き>
1か月後、今度はダマスカスではなく、さびれた地方都市ダラアで、落書きが書かれた。ダマスカスでは何事もなく過ぎ去ったのに、ダラアでは思わぬ方向に発展し、恐ろしい内戦の導火線となった。
ダラアはシリア南端に位置し、ヨルダン国境に近い。ダラアは県都ではあるが、人口数ではシリアのベスト10にも入らない小さな都市である。シリアの主要な都市はすべてダマスカスの北にあり、南にあるダラアは孤立している。ダラアで起きたことが周辺に連鎖反応する可能性は低い。
アラブの春が起きた諸国と異なり、シリアの主要都市では大衆運動の盛り上がりはなかった。ダマスカスでの大きなデモは政権を支持するものだった。ダラアでの政府の対応がよければ、内戦に拡大しなかったかもしれない。
ダラアが革命の発火点になったのは、予想外の展開だった。
3月6日、ダラアの街角の壁や穀物貯蔵塔(サイロ)に落書きが書かれた。「国民は政権が倒れることを願っている」。テレビでチュニジアとエジプトの革命を見た少年たちが、スローガンを真似たのである。少年たちの多くは名家の子供だった。地方都市の小さな挑戦が思わぬ結果になった。砂漠に近い衰退した町の少年たちの行動が革命に火をつけることになったが、この時は誰もそれを予想しない。
地元の秘密警察が、10歳ー15歳の少年15人を逮捕した。逮捕された少年たちは、ダラアの秘密警察長官の管理下におかれた。秘密警察長官はアテフ・ナジブ将軍であり、彼はアサド大統領の従兄弟と言われている。
政治犯に対する拷問は以前から市民の恨みを買っており、少年たちの親と住民は少年たちの釈放を要求した。
親たちが恐れたように、恐ろしい査問室で、少年たちは殴られて出血し、皮膚を火で焼かれ、爪をはがされた。
少年たちは釈放されたが、拷問の事実を知り、家族と町の住民は怒った。これが内戦の発火点となった。
しかし落書きが書かれた3月6日以後のダラアについて、当時何も報道されなかった。メディアはこの時期ダマスカスにしか関心がない。ダラアについての最初の報道は、3月18日のデモである。18日ダラアで4人の市民が死亡したことをいくつかのメディアが報道している。3日後の20日のデモでは7人の治安部隊の員が死んでいる。それを報道したのは、イスラエル・ナショナル・ニュース、RT(ロシア・トゥデイ)、新華社だけである。
シリア内戦の原因を考えるなら、最も重要な3月6日ー17日のダラアについての報道はない。2013年8月になって、ニューヨーク・タイムズが落書き少年の一人にインタビューを報道した。半年前に発表されたものを転載したものである。
少年は落書き事件について語り、落書きの日以後のダラアについても初めて明らかになった。
少年は父親に連れられ自首し、拷問を受けた後、釈放された。現在(2013年2月)ヨルダンに住んでいる。
このインタビューは、内戦の発端を知るうえで、極めて重要な資料となっている。
======《内戦に火をつけた無名の少年》====
A Faceless Teenage Refugee Who Helped Ignite Syria’s War
2013年2月8日
数十万人のシリア難民に交じって、少年は国境に近いヨルダンの町に住んでいる。革命に火つけた少年たちのひとりである彼は、現在誰からも注目されずに暮らしている。現在彼は17歳である。
少年たちは落書きにより反乱に火をつけることになったが、彼らに政治的な意図はなかった。反抗期の少年が国家を批判したことは確かだが、退屈をまぎらわせるための単なるいたずらという側面もあった。
少年の父は彼を警察に連れて行った。少年は逃亡していたが、警察が彼の家に来て、2番目の息子を代わりに逮捕すると威嚇したからである。取り調べを受けた少年は、拷問を恐れ、仲間の少年3人の名前を告げた。しかし結局彼は拷問された。密告が無駄だっただけでなく、仲間の少年を裏切ったことを、少年は後悔した。
落書きグループのひとりだったことについて、少年は後悔していない。
彼自身と彼の家族、そしてシリア国民が不幸な結果になったにもかかわらず、少年は内戦のきっかけとなった行為について後悔していない。「こうなってよかったんだ。アサドの正体もはっきりしたし」。
全ては落書きから始まった。アラブの指導者が政権を追われるのを見て、シリア政府はささいなことに極端に反応した。落書きした少年だけでなく、その場にいた10数人の少年を逮捕し、数週間拷問した。少年の家族、近所の住民ら数百人が抗議の集会を開き、少年たちの釈放を要求した。
治安部隊は彼らに発砲した。容赦ない措置こそが反抗を終わらせると考えたからである。治安当局のこの考えは誤りだった。少年の証言を裏付けるものはないが、その時期のダラアについて語る他の少年たちの話と大筋で一致する。
インタビューに応じた少年が逮捕された少年のひとりであることを、近所の住民2人が保証した。
少年は、従兄弟がダラアの学校の壁にスプレーでいたずら書きするのを見た。「お医者さん、次は君の番だ」。その日の夜、少年は眠れなかった。従兄弟(いとこ)の少年は落書きしただけでなく、警察の新しい売店に放火したからである。少年と彼の仲間は政治に興味がなかった。しかしテレビの衛星放送ではいつも、反政府的な言葉が語られていた。ダマスカスでも小さな抗議が始まった。少年たちは「自分たちもやる時だ」と思った。
翌日少年の学校に情報機関の職員が来た。少年はその理由がわかった。「自分たちが大それたことをやったことを、僕たちは知っていた」。
2ー3日間、警察、軍隊、憲兵が昼も夜も市中を歩き回り、容疑者の家を訪問した。
少年は隠れた。彼は「そのうち、捜索も終わるだろう」と思った。しかしそうはならなかった。
ついに警察が彼の家にやってきた。少年が不在であることを知ると、彼らは別の息子を連れて行くと言った。「それがいやなら、犯人の息子を引き渡せ。2ー3日で返す」。父は承諾し、犯人の少年を治安本部に連れて行った。少年は泣き出し、家に帰りたいと言った。父は少年を引き渡して、去った。父が家に帰ると、母が怒って父に言った。「彼に万一のことが起きたら、あなたの責任ですよ」。
少年がスワイダの刑務所に着くと、すぐに虐待が始まった。少年は尋問の際に殴られた。「落書きをしたのはお前か?」質問というより、「はい」という返事の要求だった。
「8歳の時に学校に行かなくなくなったので、僕は字が書けない」と少年は答えたにもかかわらず、、3日間拷問が続いた。拷問に耐えられなくなって、少年は「スプレーで落書きをした」と、事実でない白状をした。また、あの日その場にいた他の3人の少年の名前を明かした。
少年の逮捕から2週間もたたない頃、住民たちが少年たちの釈放を要求する抗議集会をダラアのオマリ・モスクで開き、少年の父親は電話で参加するよう誘われた。行ってみると、既に10人ほど集まっていた。父親は「抗議しなければ、さらに多くの子供たちが逮捕されるだろう」と言った。他の両親たちも同じ意見だった。デモ参加者の人数がどんどん増え、少年の父親の知人は全員集まった。
アサド政権がもっと柔軟な対応をしていれば、事態は悪化しなかったかもしれないが、判断は難しい。
政権に批判的なダラアの活動家の一人は、これまで2年間政府から弾圧されたきたが、2年前は解決が可能だったと考えている。「あの時点なら住民の怒りはしずめることができた。妥協の道はあった」。
死者の数が増えるにつれて、解決の希望は消え去った。
少年の父親は言う。「人々は抑制がきかなくなった」。
ダラアの人々の抗議運動が始まってから数日後、少年たちが釈放されるという話を父親は聞いた。それは事実だった。
少年と他の少年たちは、スワイダの刑務所を出て、ミニバスに乗り、家に帰った。帰ってきた息子の顔を見て父親は驚いた。「息子だとわからないほど、顔が変形していた」。
1年前、少年はヨルダンへ逃げた。彼は日雇い仕事を探しながらも、シリアへ帰ってアサド政権と戦うことを考えている。
落書きを書いた彼の従兄弟は逮捕を免れ、反省不軍に参加し、死亡したことを、少年は2か月前知った。
アンマンからの報告者:Kareem FahimとRanya Kadri
ベイルートからの報告者:Hwaida Saad
=============(ニューヨーク・タイムズ終了)
少年たちが釈放されたのは、アサド大統領の指示によるものらしい。またダラア県の知事が解任された。遅まきながら、大統領が介入して事態収拾を試みたようである。残念なことに、ダラアに平穏は戻らなかった。逮捕された少年たちが拷問を受けて帰って着たことと、治安部隊が抗議する人々に発砲し、死者が出たことに対する住民の怒りは収まらなかった。
現在トルコに避難しているダラアのジャーナリストであるオマル・ムクダドが言う。「彼らは来る日も来る日もデモをした。それは革命の炎だった。
ダラアの住民は恐怖に挑戦した。シリアではこのようなことは、これまでになかった。シリア国民の不満は数十年間くすぶっていたが、。
ダラアにはバース党の強い支持層があり、思わぬ都市が起爆点となった。政権に忠実なバース党のダラア支部は自分たちの地域での反乱を許せなかったのかもしれない。
ダラアの反乱には、少年たちの逮捕と拷問という理由以外に経済的な背景があるのかもしれない。干ばつによる農業の不振に加え、給料と補助金の額が減った。
ダラアのようなシリアの小さな都市には、部族的な結びつきが残っており、郊外の村を含め、住民同士の関係は緊密である。いったん反乱となると、まとまりがよく、支配者にとって厄介である。
ダラア市の人口は15万人であり、大部分のスンニ派である。スンニ派であるが、落書き事件までは、ダラアの住民は政権を支持していた。