ダラアでは、18日ー20日に続き、21日にも数千人がデモ行進をした。地上にはエリート部隊が配備され、上空を戦闘ヘリが舞い、厳戒態勢が功を奏したのか、この日死者は出なかった。これまでデモを規制していた部隊とは異なる、黒い戦闘服を着た部隊が登場した。彼らは攻撃ライフルを持っていた。デモ隊の中にまぎれこんでいたり、背後に潜む危険な連中はけん制され、デモは平和的なものになった。バース党青年部の建物が破壊されたにもかかわらず、この日死者は出なかった。
政府は死者を出さずにデモを規制する方法を考えたようである。中央政府は逆らう者は殺してまえ、という非情な姿勢ではなく、反乱の火を消す方法をを苦慮している。戦闘のエキスパートをダラアに送る作戦は正しかったようだ。
ネットのDer Standardというサイトが21日について書いてる。
(Protestbewegung dehnt sich aus 21 März 2011)
「黒い服を着て、攻撃ライフルをたずさえた数百人の部隊がダラアの道路に配置された。彼らは18日の治安部隊と異なる部隊である。この黒服の部隊はデモをする人々に対して配備されたのではない。
シリアの政権が暴力のエスカレーションを望んでおらず、民衆の感情をなだめようとしていることは、明白だ。15人の落書き少年たちは釈放された」。
21日ダラアが完全に封鎖され、厳戒態勢にあることを、ツァイト(Zeid)が書いている。
===《Das syrische Regime lässt auf Demonstranten feuern》====
3月21日ダラアの紛争は新しい段階に入った。前日死んだ者の埋葬後、大勢の人が声を合わせて叫んだ。「アラーが唯一の神!シリア!自由!もう我々は恐れていない。」
人口30万の都市は噴火しているようだ、と目撃者が語った。
市内に入るすべての道路は兵士たちによって封鎖されていた。上空をヘリコプターが旋回している。インターネット、電話、電気はせつだんされた。
事態を鎮静化するため、アサド大統領は、2週間投獄されていた少年たちの釈放を命じた。また18か月の兵役期間を15か月に短縮する予定である。県知事ファイサル・クルスムを失職させた。知事はデモの処理に際し、重大な過失を犯した。住民の要望に従い、彼は罷免された、とSANA(国営放送)が伝えた。
しかしファイサル・メクダド外務副大臣が率いる政府の使節団は民衆から罵倒された。政府は危機感を強めた。
ダマスカス、ホムス、バニアス、アレッポ、デリゾールでも、数千人が街頭に集まり、思想の自由と腐敗の根絶を要求した。
シリアは中東で最も残酷な警察国家であり、これに匹敵するのはリビアのカダフィ政権とチュニジアのベン・アリ政権だけである。反対派の人間と人活動家は容赦なく逮捕され、投獄され、拷問される。秘密警察が目を光らせ、国民を見張っている。国連のバン・キ・ムン事務総長は、シリアの秘密警察のやり方は容認できない、と述べている。
================(Zeid終了)
LIBNANというニュース・メディアが、21日のダラアの近くの町でも小さなデモがあったことを伝えている。またイスラエルがゴラン高原を占領しているので、パレスチナと同じく、シリアには反イスラエル世論があることを述べている。断固たる反イスラエル姿勢が政権に求められている。
===《Protests spread to southern Syrian town Jassem》====
21日ダラアで、昨日のデモで死んだ市民の葬儀後、数千人がデモ行進をした。
ダラアの抗議運動はチュニジアとエジプトの反乱に触発された、と住民が言った。彼は今日(21日)のダラア市のデモについて、次のように語った。
「昨日のデモで死んだライド・アクラドの埋葬後、大勢の人が墓地からオマリ・モスクに向かって行進した。
ダラアの抗議運動は周辺地域に拡大し、近くの町ジャセムで、21日数百人がデモをした。「現在彼らは町の中心部で座り込みをやっている」と活動家が述べた。
ヨルダン国境に近いハウラン地方の都市ダラアのデモは、シリアでは最も人数が多い。次の都市でもデモが起きている。ホムス・ダマスカス・デリゾール・カミシュリ・バニアス・アレッポ。
明らかに、政権は不意を突かれて驚いている。シリアは、地上でもっとも抑圧的な国家である。数週間前、アサド大統領は満足そうな様子で語っていた。「アラブ世界では大衆運動が吹き荒れ、政変が起きているが、シリアは影響を受けないだろう。政府の政策が民衆の感情と一致しているからだ」。
この主張は事実によって否定された。ただし、政権崩壊が差し迫っているわけではない。またデモ参加者の大部分は、重要な点で、政権と同じ考え方をしている。それは反イスラエル・反西欧という思想である。
ダラアの出来事によって明らかになったが、政権は予想通り、自国民に対し極端な暴力を行使した。デモ隊に向かって実弾を放った。
これは政権の強さを示すものではなく、実は弱さを証明している。
エジプトとチュニジアでは政権に属する者が、抗議する人々と交渉を始めた。不人気な政権のトップが辞職し、軍部が改革の過程を指導した。
シリアの政権は部分的な変革を許す余裕がない。アサド家が頼れるのは、人口の12%を占めるアラウイ派だけである。政権は合法性によってではなく、恐怖によって統治している。
シリアはイランの同盟国であり、反政府運動が拡大した場合、イランを中心とする同盟と反イラン連合の対立が先鋭化する。このように緊張した状況があるので、シリア政府は、極端な手段を用いて反対運動を弾圧するだろう。
アサド政権はイスラエルの最も手ごわい敵であることで、国民から正統性を認められてきた。しかし1973年以来、ゴラン高原はイスラエルに占領されたままであり、この間イスラエル軍とシリア軍の間で1発の銃弾も発射されていない。
ゴラン高原の町クネイトラでデモがあり、「アサドは裏切り者だ」と叫んだ。イスラエルのゴラン高原占領を、容認しているからである。そして「シリアの治安部隊をイスラエルが援助してている」からである。
この批判はムスリム同胞団のアサド批判と同一である。「シリア政府はイスラエルを擁護している。ゴラン高原について沈黙してるのは、シリアがイスラエルに従属している証拠だ」。
====================LIBNAN終了)
イスラエルが占領しているゴラン高原
3月21日ダラアのバース党青年部の破壊された、とガーディアンが伝えた。同紙は3月18日ー21日のダラアの反乱に関連して、シリア国家の特異性を述べている。反イスラエル・反西欧という立場を鮮明にするシリアは、周辺のアラブ諸国の中で孤立している。
======《反西欧のシリアにも革命が迫る》====
Even anti-western Syria is not immune to revolution
3月21日バース党の青年革命団ダラア支部の建物が破壊された。
エジプト・サウジアラビア・そして多くの湾岸諸国はイスラエルに対し妥協的であり、親欧米であり、欧米に支持されている。これら穏健な体制の国々は、地域の安定に貢献しており、間接支配を望む欧米にとって足場であり、柱である。
これに反し、シリア・イラン・ヒズボラ・ハマスはイスラエルに敵対し、反欧米の旗を掲げる危険な勢力である。
米国と穏健ナアラブ諸国は、時にはシリアの政権を自分たちの陣営に誘い入れようとし、あるいは手なずけようとし、またこれを倒そうとしてきた。
しかし最近3カ月間、自陣営の穏健な諸国で大衆蜂起が起き、チュニジアとエジプトの政権は倒れてしまった。
対照的にシリアは安定している。アサド大統領の考えによれば、シリアの安定の理由は欧米の影響下に入らなかったからである。シリアはアラブ的なものを真正に体現しており、イスラエルとその背後にいる西欧諸国と正面から戦うことが、シリア国民の信念であり、イデオロギーであり、正義である。他のアラブ諸国に欠けている、アラブ愛国心がシリアにはある。
しかしシリア政府のこうした考えは、独裁者が生き延びるための方便であり、妄想にすぎない。
このようなアラブ愛国論はシリア国民の関心をひかない。もっと重要な問題から目をそらす、ごまかしにすぎない。
シリア以外のアラブ諸国の国民の間でも、アラブ民族主義は国民の関心事ではなくなっている。ムバラクやベン・アリに比べ、アサドが人気ある指導者であることは確かだが、彼の親族が率いる抑圧組織はエジプトやチュニジアより残虐である。
抗議する人々は「圧政からの自由!戒厳令と特別裁判の廃止!」と叫んだ。
またアサド政権はムバラクと同じくらい腐敗し、富を独占してる。
シリア国民は、アサドのいとこであるラミ・マクルーフは、仲間だけの資本主義の頂点に立っており、ダラアの人々は彼を呪っていた。彼が所有する電話会社のダラア支社は焼き討ちされた。
シリアのバース党は、ムバラクの国民民主党より長期間政権の座にあり、その分余計堕落しており、貪欲(どんよく)である。バース党ダラア支部も焼き討ちされた。
政権はダラアの主な支持層にわいろを渡し、彼らの支持をつなぎとめようと努力した。しかしながら一般の人々が求める「自由と民主主義」については、それを実現する約束をしていない。次の世代まで、根本的な変革をするつもりはない、とアサド大統領は率直に述べた。
こうした政権の姿勢は、話し合いと和解、そして新政権への平和な移行を、最初から不可能にする。したがって、もしシリアで国民蜂起が起きれば、それはリビアのように激烈な闘争になるだろう。
==============(ガーディアン終了)