ダラアの反乱は他地域に大きな影響を与え、シリア革命の先陣の役目を果たした。最初は取るに足らない、少人数のデモだった。逮捕された子供たちの釈放を求め、親たちがデモをした。彼らを支持する親戚や近所の住民が加わる、数百人のデモに過ぎなかった。しかし治安部隊が彼らに発砲したため、これに反発した次回のデモは数千人になった。これがシリア内戦の発端である。ダラアの政治警察が柔軟な対応をせず、強硬な姿勢を崩さなかっため悪循環に陥り、デモの人数は数万人にふくれあがった。
2016年になって、ダラアの反乱に関し、CIAの関与があったとする説が発表された。落書き少年たちが逮捕され、親たちが騒ぎ出す前に、リビア人テロリストがダラアに来ており、モスクに武器を運び込んだ、というものである。
=======《ダラア反乱の前夜》============
The day before Deraa: How the war broke out in Syria
米ヘラルド・トリビューン 2016年8月10日
執筆:Steven Sahiounie
2011年3月ダラアで騒乱が始まるまで、シリアは平穏に見えた。しかし実はそうではない。反乱の第一章が始まるのに先立ち、ダラアには外国人が入り込み、暗躍していた。オマリ・モスクでは準備がなされていた。衣装を変えてリビアのクーデターの再演をするつもりだった。リビアの体制転覆に成功したテロリストたちは、ダラアの反乱が始まるよりずっと前にダラアに入っていた。
オマリ・モスクの聖職者はシェイク・アフマド・サヤスネである。彼は老齢で視力が弱く、黒いメガネをかけている。彼は物がよく見えないため、家に閉じこもり、人を避けている。彼は聴覚に頼り、声やアクセントにより他人を見分けている。ダラア方言は独特であり、ダラア人を見分けるのは容易である。オマリ・モスクに集まるのはダラア人だけであり、彼らはダラアなまりで話す。しかしリビアから来た人間はリビア方言で話す。リビアなまりで導師サヤスネに話しかけたなら、導師は話している人間がダラア人でないことがわかるだろう。導師はよそ者がモスクにいることを悟るだろう。だからリビアから来たテロリストたちは決して導師と話をせず、代理人を立てて彼らの意向を導師に伝えた。彼らは信頼できるダラア人をパートナーに選び、事を進めた。リビア人に協力したダラア人はムスリム同胞団だった。ダラアのムスリム同胞団を手足として使うことを計画したのはCIAだった。CIAはヨルダンで計画を練り、作戦を指導した。
地元のイスラム原理主義者の協力を得ることにより、リビア人テロリストたちは表面に出ずに作戦を実行できた。
ヨルダンを拠点とするCIAは、反乱を起こすのに必要な武器と現金を彼らに渡していた。どの国にも不満分子や野心家はいるので、かれらに武器と現金を渡せば、反乱に火をつけることができる。
2011年3月のダラアの反乱は、少年たちの落書きが原因ではない。少年たちを釈放してくれと要求する親などいなかった。これはCIAが書いた筋書きであり、ハリウウッド映画の台本のようなものである。ヨルダンのCIAエージェントたちに与えられた任務は、アサド政権を転覆することだった。ダラアは第一幕第一場だった。
落書きを書いた少年たちの名前はわかっていないし、当然親たちの名前もわからない。子供の写真も親の写真もない。彼らの実在を示すものは何もない。
一般大衆の支持がなければ、反乱は成功しない。
ダラアの一般市民は、CIAのシナリオに乗せられているとは夢にも思わず、デモに参加した。彼らは無報酬で無自覚にエキストラ出演した。CIAの筋書きは知らなかったが、政府に対し不満があったのは事実であり、それだからデモに参加したのである。彼らの不満は数世代前から続いており、根が深かった。この不満はサウジ王家が信奉するワッハーブ主義イスラムの政治イデオロギーの浸透によって増幅された。
大統領を批判する落書きを書いた少年たちが逮捕された、という噂が広まるよりずっと前に、リビア人たちはオマリ・モスクに武器を運び込んだ。目が悪く、年老いた導師はモスク内で起きていることを把握できておらず、外国人が侵入していることに気付かなかった。
武器はヨルダンのCIA事務所からダラアのモスクに運ばれた。米政府とヨルダン国王は緊密な関係にある。ヨルダンの人口の98%がパレスチナ人であるにもかかわらず、ヨルダンとイスラエルとの平和条約は破られる気配がない。ヨルダン市民の親戚500万人がイスラエル占領下のパレスチナで人権を奪われているのに、ヨルダン国王はイスラエルとの良好な関係を大切にしている。両立しない国家の安全と国民感情との間で、国王は難しい綱渡りをしなければならない。また国王は米国の利益にも配慮しなければならない。アブドラ国王の妻(=王妃)はパレスチナ人であり、夫妻は国民と外国からの重圧に耐えなければならない。こうしたヨルダンの事情がシリアで起きることに多大な影響を与えている。40年間シリア・アラブ共和国はパレスチナ人の自由と正義の支柱の役目を果たしてきた。
米国がシリアの体制転覆を計画した理由は、いくつか考えられる。地政学的な位置、ガス・パイプライン、油田、金などである。しかし最も重要な目的はパレスチナ人の支援をやめさせることである。アサド大統領を葬ることによて、パレスチナ人の人権の強固な代弁者を取り除くことができる。
ダラアが反乱の最初の場所として選ばれたのは、ヨルダン国境に近かったからに他ならない。シリアの人々に、「ダラアに行ったことがあるか、行く予定があるか?」と尋ねるなら、ほぼ全員が「ない」と答えるだろう。ダラアは取るに足らない小さな田舎町である。全国的な革命を始めるのに、最もふさわしくない場所である。ダラアには重要な遺跡があり、考古学者や歴史学者が注目しているが、それ以外にダラアに関心を持つ者などいない。学者以外にダラアに関心を持ったのはCIAだけだ。
ダラアはヨルダンから武器を運び込むのが容易であり、CIAにとって完璧な場所だった。常識のある人間なら、シリア革命を始める場合ダマスカスかアレッポを選ぶだろう。ダラアに続きシリア各地で革命が始まって2年半が経過しても、アレッポ市民は反乱に参加しなかった。彼らは決して体制転換を叫ばなかった。シリアの巨大産業都市アレッポはCIAの目論見に興味がなかった。反乱に関わらずにいれば、アレッポでは大騒動に至らず、一部の騒乱も市民の支持がないので自然に消滅するだろう、とアレッポ市民は考えていた。しかし事態は思わぬ方向に向かった。
米国はイドリブとその周辺から来た自由シリア軍を支持した。さらに多数の外国人を呼び込み、トルコからアレッポに向かわせた。これらの外国人はアフガニスタン、ヨーロッパ、オーストラリア、北アフリカからトルコの航空便に乗り、イースタンブールに降り立った。それからトルコ政府が所有するバスに乗り、シリア国境に向かった。航空機の搭乗券、小切手、食糧その他の必需品、医薬品はサウジアラビアの役人が与えた。武器については、リビアのベンガジに保管されていたものを、米国が与えた。
米国とNATOによるカダフィ政権転覆が成功した後、リビア政府が所有する武器と財貨は米国の所有になった。中央銀行に保管されていた数トンの金塊もこれに含まれる。
リビア革命の勇者がシリアに移ったのは成功だった。リビアの反乱で活躍したテロリスト旅団の指導者メフディ・ハラチはリビアのCIAから資金を受け取り、命令を受けていた。彼はアイルランドのパスポートを持っていた。リビアの戦闘が下火になると、彼は北シリアのイドリブに向かった。そこは米国が支持する自由シリア軍の基地となった。マケイン上院議員はパスポートもなくシリアに入り、イドリブを訪問した。彼は自由シリア軍を支援すべきだと、議会で演説した。彼の友人である自由シリア軍はキリスト教徒とムスリムの首を切断し、少女たちを性奴隷としてトルコに売り、人間の肝臓を生で食べ、それをビデオで公開した。
内乱前シリアは平和な国であり、アルカイダ系テロリストはいなかった。シリアは戦乱に苦しむ隣国イラクの国民に寛大であり、難民200万人を受け入れた。ダラア反乱の直前、米国の俳優ブラド・ピットとアンジェリナ・ジョリー夫妻がダマスカスを訪問して、イラク難民を励ました。アサド大統領夫妻が車で市内を案内してくれたので、ブラド・ピットは感激した。セキュリティ検査もなく、大統領のボディ・ガードはいなかった。夫妻が米国にいる時はいつもボディ・ガードがついていた。ダマスカスは安全で住みやすい、と大統領が言った。フランスの旅行会社協会はダマスカスを地中海で最も安全な旅行地と評価した。フランスの地中海沿岸の有名なリゾート地より安全ということである。
しかしながら、米国の戦略は中東の再編だった。トルネイドー作戦(イラク戦争)に続き、変革の嵐(アラブの春)が吹き荒れ、シリアの平和も葬られた。
チュニジア、リビア、エジプトそしてシリアはアラブ再編の序幕にすぎなかった。その先が本番だった。しかしシリアが筋書通りに進まず、いつまでも終わらず、出費が膨らんでしまった。
シリア破壊において主要メディアが果たした役割は大きい。アルジャジーラは国営メディアであり、カタール国王の意向に従って運営されている。国王はシリアを攻撃したテログループの創設に関わった一人である。米国はテロリストたちに武器と補給物資を送り、衛星画像を供与した。志願兵募集の資金やトルコの部族に支払う資金はカタールとサウジが出した。その他の支払いに必要な現金もすべてカタールとサウジが出した。両国は米国の親密な同盟国として重要な役割を担った。中東再編はこの3国に加え、EU、NATO、イスラエルが参加した総合作戦である。
CIAは海外での秘密作戦を好き勝手にやれた。大規模な軍事作戦さえやれた。しかし資金がなかった。合州国の国民はシリアでの人殺しに興味がなく、予算が承認されなかったからである。それで作戦のための資金を外国に頼らざるを得なかった。アラブ人が資金を出すなら、お好きにどうぞ、というのが無名の合州国国民の姿勢だった。彼らはシリアという国がどこにあるのかも、知らなかった。
=================(ヘラルド・トリビューン終了)
一点だけ反論したい。
「大統領を批判する落書きした子供が逮捕された」という話は作り話だ、というのは受け入れらない。子供たちの釈放はダラア市民の要求の一つであり、シリア政府は「子供たちを釈放する」と約束し、実行している。