もともとコバニは小さなクルドの村にすぎず、クルドの主要な居住地から離れていた。1912年に、バグダード鉄道が通り、小さな駅ができて、町になった。コバニはカンパニー(会社)がなまったものだという説がある。コンバニ? 会社とは、バグダード鉄道を建設したドイツの会社のことである。
オスマン帝国の迫害を逃れたアルメニア人が、駅の近くに町をつくった。これが村から町へ発展する最初のきっかけとなった。町の建設者であるアルメニア人はコバニの主要な住民となり、3つのアルメニア教会があった。しかし1960年代、ほとんどのアルメニア人がソビエト連邦内のアルメニア共和国へと移住した。
ISISとの戦争前、コバニの人口は4万5千人である。住民のほとんどがクルド人であり、アルメニア人は1%にすぎない。他にアラブ人 (5%)とトルクメン人 (5%)が住んでいる。
コバニの戦いは大きな波紋を呼んだ。戦闘開始から最初の10日間で13万人が難民となった。シリア北部の難民がコバニに流入し、人口が増えていた。コバニに避難してきていたのに、再び難民となった人も多い。コバニは2014年9月から2015年1月まで、5か月間ISISによって包囲された。都市の大部分が廃墟となり、ほとんどの住民がトルコへ避難した。
この間クルド人民防衛隊(YPG)が、劣勢を耐え抜いて闘い、最後に勝利した。クルドの女性兵士について世界のメディアが報じた。
しかし、コバニを最初に攻撃した時、ISISはそのように重大な戦闘になると予想していなかった。8月までの作戦の延長にすぎなかった。8月半ばのタブカ空軍基地の時よりは楽だろうと考えていた。この空軍基地はラッカの政府軍にとって最後の拠点となっていた。これを落とそうとして、ISISは3度攻撃し、3度失敗した。ISISを撃退したと考え、政府軍は撤退した。ISISは政府軍の留守を狙って4度目の攻撃をした。基地には、少数の守備隊しか残っておらず、ISISは基地を占領した。
ISISはシリア内戦に遅れて参入したものであり、ラッカ県とデリゾール県に単独支配を確立したのは、2014年になってからである。ラッカ県の大部分を1月に、デリゾール県は7月に掌握した。ラッカ県に残っていた政府軍の3つの根拠地も、8月、苦戦の末奪い取った。
ラッカ県とデリゾール県にまたがる支配地を得たことにより、ISISはアレッポ県の前進基地の維持が容易になった。
ISISはすでにアレッポ県北東部にいくつかの町を獲得している。2014年1月のラッカ制圧の直後、1月14日アル=バーブを攻略した。続いて23日、マンビジを攻略した。どちらもアレッポの東にある町である。
アレッポに近いアルバーブは、アレッポ攻勢のための前進基地である。このアルバーブにとって、ジェラブルスは重要である。ジェラブルスは国境の町であり、トルコからの援軍と補給をアルバーブに送ることができる。アルバーブはラッカのISISによって支えられているが、ジェラブルスはなんといっても近い。ジェラブルスからの補給により、アルバーブはかなりの程度自立できる。
マンビジはジェラブルスとアルバーブの中間に位置し、補給の中継基地の役目を果たしている。また前進基地アルバーブから一歩退いた後方基地の役目を果たしている。実際ISISは、アレッポ付近で捕まえた子供たちを、マンビジに監禁した。
2014年5月29日、約250人のクルド人の生徒がアレッポで中学校の試験を受けた。コバニへ戻る途中で、生徒たちはイスラム国に誘拐された。100人ほどの少女たちは数時間後に解放されたが、少年153人がコバニの南西55キロに位置するマンビジの学校に拘束された。幸い、ISISに凶悪な意図はなかったようで、14歳〜16歳の少年は全員無事帰った。ただし、5か月間厳しい宗教教育を受け、苦痛を味わった。
コバニをISISの支配下に置けば、ジェラブルスは安定する。ラッカ県の拠点テルアビヤドとジェラブルスの間にコバニがある。コバニは邪魔な存在である。アレッポ県北東部の支配地はラッカ県北部と結合され、強化される。将来のアレッポ攻勢とイドリブ進出に備え、アレッポ県の北東部をまず固める。
アレッポの手ごわい政府軍を後回しにして、ISISはコバニを先にかたづけようとした。
2012年7月以来、クルド人民防衛隊(YPG)がコバニを支配している。YPGとクルド人政治家はコバニをクルド自治領とみなしている。彼らは、コバニ市とその周辺をコバニ州と呼ぶ。コバニ州はアレッポ県アイン・アラブ(=コバニ)地区の北半分である。
アイン・アラブ地区の2004年の人口は19万人である。、コバニ自治州はアイン・アラブ地区の北半分なので、人口は約12万人である。しかし、ISISの攻撃を受けるまで、コバニは平和であり、シリア北部から多くのクルド人がコバニに避難した。クルド人はコバニとアフリン以外にも住んでいる。
2014年の統計の時よりはるかに多くの人が、コバニ自治州に住んでいた。20万人が難民となった。
<ISIS、周辺の村々を攻撃>
2014年9月13日、ISISはコバニに大攻勢をかけ、市の東西の村々に侵入した。16日、戦略的に重要なユーフラテス川の橋を占領した。
9月17日、戦車・ロケット砲・重砲と共に進撃し、ISISは21の村を占領した。これによってコバニ市は完全に包囲された。コバニ州に隣接する地域の自由シリア軍も、市内に退却した。17日の進撃地点を地図で示す。
地図には、コバニ自治州の境界が示されていないが、境界線は「15日の前線」とほぼ一致する。17日に、ISISはコバニ自治州内に入った。コバニ自治州の境界の確認のため、別の地図を示す。
2日後の19日、ISISはさらに39の村を奪った。ISISは市まで20kmに迫った。
4万5千人が、国境を越えてトルコへ避難した。他にかなり多くの人が、トルコに入れず、追い返された。休みなく砲撃され、村人は逃げた。100の村が無人となった。数十人のYPGと住民が死亡した。
9月20日、ISISは市まで15kmに迫り、市から10kmの範囲内に砲撃した。
この日、YPGに援軍が到着した。トルコから300人以上のクルド人戦闘員が、市内に入った。
トルコのクルド労働党(PKK)の幹部が、シリアのクルド部隊に志願するよう、トルコのクルド人青年に訴えた。この日3発のロケット弾が市内に落ちた。避難民の数は合計6万人に達した。
20日と21日の2日間で39人のISISが死亡し、27人のクルド兵が死亡した。YPGは100個の村の住民をシリアの他の地域へ避難させた。
21日、ISISは市まで10kmに迫った。コバニ市の南と東の郊外が主な戦場だった。
22日、米軍がタラビヤド付近を空爆した。ISISの武器と戦闘員がトルコからタラビヤドに入り、コバニに向かっている。空爆は効果的だった。東の郊外のISISの前進は止まった、とYPGが発表した。前進を阻まれたISISは、市内に向けて砲撃した。市から6km西の村と7km東の村で戦闘が続いた。
この日トルコのクルトゥルムス副首相が、国境を越えてトルコに逃れたクルド避難民は、13万人であると発表した。
9月24日、トルコから飛来した数機の戦闘機が、ISISの補給ルートを空爆した。この時点では、米空軍はシリアの領空権を尊重し、トルコ側から侵入した。ISISへの補給はトルコから来る。ISISを攻撃する戦闘機もトルコから来る。変な話だ。
しかしISISの進撃は衰えず、市の南方8kmに迫っている。ISISに援軍が来ており、戦闘員は4000人になった。
9月25日の朝、ISISは市まで2kmに迫った。この日までに、ISISはコバニ自治州の75%を占領した。
3月1日の防衛線がコバニ自治州の境界である。
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