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2011年4月半ばのシリアの状況

2018-06-12 23:45:52 | シリア内戦

 

20114月半ば、ダラアの反乱は終息の見込みがなくなっていたが、ダラアは最南端の小都市であり、全体としてみればシリアの政権が危機にあるわけではなかった。私がこの時期について書き続けているのは、シリアがどのような経緯を経て、2012年以後の内戦に突入したかを検証するためである。

武力革命は長引かず、犠牲が限定的である場合はよいが、革命に伴う経済破たんが長期にわたり、国民の犠牲も多大になる場合がある。後者のようになる危険は5分5分なので、できるなら漸進的な革命を選ぶのが良い。シリアの革命は武力革命の失敗例であり、革命の原因はアサド政権の腐敗と冷酷にあったのか、革命派の盲目と外国の陰謀にあったのか、厳しく問われなければならない。2011年の春ダラアの状況が悪化した経緯はについて判断する材料を与えてくれる。

今回はシリアをよく知る識者が20114月半ばのシリアの状況をどのように見ていたか、について2つの記事を取り上げる。

最初はシリアと米国と米国の大学で国際関係を教える教授の文章である。

 

=====《アサド政権は危機を乗り越えるだろう》===

     Weathering the Storm

              By Alias Samo

BitterLemons-international.org   2011414

: http://www.bitterlemons-international.org/inside.php?id=1366

 

チュニジアの青年の焼身自殺をきっかけに、アラブ世界に革命が燃え上がった。シリアの都市でも抗議デモが起きたが、大統領の退陣を求めるものではなく、この点でカイロ、チュニス、ベンガジにおける激しい抗議と異なっていた。またエジプト、チュニジア、リビアの場合、首都で大規模なデモが起きたが、シリアの首都ダマスカスでのデモは人数が少なかった。またイスラム主義者の拠点都市アレッポとハマでは、デモが起きていなかった。いくつかの都市でデモが起きているが、イスラム過激派が動いていないことは、政権にとって安心材料だった。1978-1982年のムスリム同胞団による激しい反乱はアレッポで始まり、ハマで終わった。

現在シリアでデモをしている人々は大統領に改革を求めているのであり、彼の退陣を求めているわけではない。人々が大統領に希望を託していることには、いくつかの理由がある。

①アサド大統領は多くの傲慢な独裁的指導者のイメージからかけ離れており、謙虚で親しみやすく、普通の市民のような性格である。

②アサド大統領は米国に屈せず、イスラエルに立ち向かうアラブの最後の勇士であり、国内だけでなくアラブ世界で人気がある。彼はアラブ民族主義の立場を捨てない最後の指導者である。

③これまでのデモで市民が死亡しており、政権にとって不吉な兆しはあるが、シリア国民の多くは現実的であり、チュニジアやエジプトと同じことは望んでも無理と判断しており、リビアアやイエメンに様になることは絶対避けたいと考えている。シリア国民の不満は大きいが、現実主義的な判断に基づき、穏健な改革で我慢することになりそうだ。彼らの不満は大きく、いくつかの改革を望んでいる。

①戒厳令を緩和し、政治的自由をある程度認める

②支配階級の腐敗を根絶。統治過程の透明化。

③政党の自由を認める。(現在バース党以外の政党も存在するが、真の野党は禁止されている。その結果、縁故主義がまんえんし、有能な人材に道が開かれない。)

デモが始まってから、大統領は改革を実行した。内閣を一新し、ダラアとホムスの知事を解任した。またクルド人へ市民権を与えた。これ以外の改革もできるだけ早急に実現したほうがよい。

エジプトのムバラク大統領の辞任はエジプト国民にとってだけでなく、シリアにとっても喜ばしいことだった。最近数十年エジプトとシリアの関係は急速に悪化していた。1961年のアラブ連合の解消により、両国の関係は友好から不信に変わった。1973年のアラブ・イスラエル戦争(第4次中東戦争)後に、両国の関係は最悪となった。エジプトのサダト大統領は米国の提案を完全に受け入れ、1979年イスラエルとの和平条約に調印した。これに対しハフェズ・アサドは米国から距離を置き、イスラエルに敵対的な姿勢を崩さなかった。サダトとアサドの対立は自世代のムバラクとバシャール・アサドに受け継がれた。

ムバラクの辞任は国内問題が原因だったが、エジプト国民は反米・反イスラエル的な感情が強く、新政権がこれに沿った外交に転ずるなら、イスラエルとエジプトの関係は悪化するだろう。シリアとエジプトが再び統一戦線を組み、イスラエルに敵対してくれば、シナイ半島とゴラン高原の平和が危うくなり、イスラエルの平和の条件が崩れるだろう。

ムバラクの退陣により、シリアとエジプトとの関係が敵対から友好へ変わる可能性が生まれたとはいえ、シリアを取り巻く国際環境は厳しい。特に最近10年年間米国からの圧力に直面してきたが、今後も続くだろう。

現在アサド政権は国内危機に直面しているが、チュニジア、エジプト、リビアのようにはならず、危機を克服するだろう。

==============(BitterLemons終了)

 

シリアの場合、最初にデモが起きたのは小・中の都市だけであり、首都ダマスカスと第2の都市アレッポは平穏であった。シリアは10か月かけて徐々に危機に突入していったのである。そして10か月後には収拾困難な事態になってしまっていた。20113月半ばにデモが始まっており、政権が夏の終わりまでに問題を解決できなかったことが、2012年以後の内戦を不可避なものにした。4月半ばは危機的な状況ではなかったが、一歩一歩破局に向かっていたのである。

 

======《外交を重視し、国民を軽視》======

Paying Lip Service to Resistance does not Provide Immunity

          By Karim Emile Bitar

     BitterLemons-international.org   2011年414

  http://www.bitterlemons-international.org/inside.php?id=1367           

 

2003年の米国によるイラク侵攻は大きな失敗だった、とアサド大統領は考えていた。シリアはイラクからの難民130万人を受け入れ世話をしたが、これは人口2200万人のシリアにとって重荷だったが、シリア国民はこの政策を支持した。シリアはイランとの戦略的な協力関係を強め、ハマスとヒズボラを支援した。2006年のレバノン内紛の際、シリアはヒズボラを支援した。シリアはイラクで戦争をするブッシュ政権に公然と敵対的姿勢を示した。これはシリアの孤立化を招く、危険な政策だったが、少数の友好国もあり、助け舟となった。トルコはアラブ諸国に対し、「もめ事を起こさない」方針を取っていた。またフランスのサルコジ大統領もシリアに対し友好的だった。

しかし現在(20114月半ば)シリア政府は国内問題に直面している。見せかけの改革や部分的な変革によって国民の不満をなだめることはもはや不可能である。

2000年代後半には少雨と無雨により、シリア東部の農家が農業を捨てた。雨水に頼る農業を営む農民はもともと貧しく、破産により都市に流れ最下層民になった。シリアの政権は外交を重視し、国内の貧困層に対する配慮が不十分だった。イラク難民はシリア政府に感謝したが、破産した自国の農民は不満だった。シリアの国民はアサド政権の外交を支持していたとはいえ、内政には不満だった。

貧しさと政治的自由のない環境は、若者にとって酸素が欠乏した状態に似ていた。48年間戒厳令が解除されないのは異常であり、圧制の象徴だった。農業従事者だけでなく、他の産業の労働者も貧困ライン前後の生活をしていた。就業者の大部分が非正規労働であり、セーフティ・ネットは存在しない。闇市場が栄えていた。特権的な少数の人々が、通信事業、農業ビジネス、商業、不動産業を独占していた。シリアの経済は総入れ替えを必要としていた。シリアの反乱は南部の貧しい田舎の小都市ダラアで始まった。他の地域にも、基本的人権を奪われ、貧しさから抜け出すチャンスを見いだせない若者が多い。彼らはチュニジアとエジプトの革命に刺激され、革命に活路を見出そうとしている。これらの若者の願望を無視することは、噴火に近づいている火山に注意を払わないのに等しい。

シリアの政府が勇気ある改革をするなら、若者の不満の爆発を避けることができ、健全な経済発展の道を歩むことになる。特権階級による富の独占という病根さえ切除すれば、シリアには経済発展のための好条件がある。

①シリア国民は識字率が高い。

②若年層が多く、労働力が十分にある。

③シリアは古代・中世の歴史的遺産が多く、観光業による収入が見込める。

④国家財政の赤字は少なく、新産業育成のための国家プロジェクトが可能である。

このような条件がそろっているにもかかわらず、シリアはこれまで改革に取り組んでこなかった。アラブの若者の間に改革を求める熱気があふれている現在、アサド政権がもし改革を後回しにするなら、命取りになるだろう。

シリアの国民は19781982年の反乱を忘れておらず、流血革命を望んではいないとはいえ、根本的な変革を願っている。そしてそれが将来でなく、今実現することを期待している。バシャール・アサド大統領が中途半端な妥協で切り抜けようとするなら、決定的な過ちを犯すことになるだろう。既得権を持つグループとの全面対決なしに、真の改革は実現しない。しかし残念ながら、アサド大統領には、そのような改革を断行する意志も能力も欠けているようである。したがってアサド政権は劇的な破滅に向かうだろう。

それでもアサド政権にとって唯一の希望がある。それはイスラエル、ヨルダン、サウジアラビアは現状維持を望んでおり、アラブの国で劇的な政変が起きるのを警戒していることだ。エジプトで革命が起きた時、これらの国は米国にムバラク政権を守るよう圧力をかけた。これが失敗に終わると、これらの国は「他の国おいて連鎖反応が起きないよう手を打ってくれ」と米国に願った。クリントン国務長官が「アサド大統領は改革派だ」と発言したのは、3国の要望に沿った結果である。

シリアと対立していた中東の国も、アサド政権の転覆を考えておらず、現状維持を望んでいた。ただしイスラエルはそうではないかもしれない。

アサド政権の外交政策を支持していたはずの国民は、現在政権を脅かしており、アサド政権が敵と考えてきた米国と親米アラブ諸国はアサド政権の安定を願っている。

===================(BitterLemons終了)

 

米国とシリアはハフェズ・アサドの時代から敵対関係にあり、2003年以後米国は民衆反乱によりアサド政権を転覆させる機会をうかがってきた。ところが2011327日クリントン国務長官はアサド大統領を称賛する発言をした。「シリアを訪問した(米国の)議員たちの話によれば、アサド大統領は改革者である」。この時期ダラアの反乱は収拾不可能なまでに悪化しており、アサド政権の転覆をうかがう米国にとって、ついにチャンスが来たのである。もちろダラアの反乱だけて政権が倒れることはないが、よい兆候である。ダラアで起きたことがホムスでも起き、徐々に他の都市に広がっていけば、アサド政権は危機に陥る。

アサド政権を応援する発言をしたクリントン国務長官は米国内で厳しく批判され、すぐに発言を修正した。「あの発言は議員の考えを伝えただけで、国務省の見解ではなく、私の考えではない。

シリアを敵国と考える米国の立場と矛盾する発言をしたクリントン長官の真意は謎である。民衆デモによりエジプトで政変が起きたことは、サウジアラビアやヨルダンを動揺させたようである。明日は我が身か、と震え上がり、アラブの反乱の火消しを米国に頼み、それに答えてクリントン長官はシリアで燃えかかった火を消そうとしたのかもしれない。しかしそれは米国の長年の方針に反することだった。


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