老生の幼・少年期(1950年代)は、敗戦後の混乱から復興の時代、未だ社会は安定していなかった。
都市の大人たちは日常生活に追われ多忙、現代の様に子どもの養育が手篤くできる家庭はまだ少なかった。
不幸中の幸い、街場の大多数の子どもたちは、放課後の自由時間を、思う存分に学校友だちや町内の遊び仲間と過ごすことができた。
街区毎に子どもたちのグループがあり、それぞれ行動を取りまとめる年長のガキ大将(概ね中学生)が居た。
虫採り、釣り、草野球、模型飛行機やラジオづくり、毎日のように何処かに集まった。日に一度は、駄菓子屋さんに立ち寄るのが習慣だった。
戦後の駄菓子屋さんは、寡婦が多かった。
私が足繁く通った店の女主人は子どもたちに「おはるさん」と呼ばれていた。駄菓子屋さんの繁衍は、戦争未凡人が多い世相を映す鏡だった。
駄菓子屋さんは子どもたちにとって今日のスナックでありミニコンビニでもあったが、なんと言っても大きな意義は、社交の場であることだった。仲間同士はここで様々な情報を交換した。
駄菓子屋さんは、単に菓子や玩具を売るばかりでなく、おでんやお好み焼きなど、軽食も食べることができた。
年長の子が年少の子に、菓子や食べ物を分け与えることが屢々あった。大人の世界の「奢る」が訛ったのか、「オモル」「オモッテ」という言葉を、老生の育った街の子どもたちはよく口にした。
経済が回復し、社会にゆとりができるに従い、塾や習いごとに通う子の数が増え、外遊びと駄菓子屋さんでの社交時間は年ごとに減っていった。小学校を卒業する頃にはグループは解散し、駄菓子屋さんから足が遠のいた。
世の中が様変わりしたのは、やはり東京オリンピック(昭和39年)が開催されてからだろう。誰が言い出したのか「もう戦後ではない」の掛け声が始まった頃である。良くも悪くも、日本の大人たちが自信を取り戻し始めた転換点だった。
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