道々の枝折

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畏み崇め奉るクセ

2024年12月05日 | 人文考察

私たち同胞が共有する同調性とか集団志向、殊に事大主義について、当ブログのカテゴリ〈人文考察〉の一環として長いこと愚考を重ねているが、最近ふとしたことから、新たな考えが泛んだ。

それらは、歴史的に支配者や権力者から一方的に強制または感化され身に付いたものでなくて、被支配者の民衆自らが進んで、権威を畏み崇め奉る生活習慣を、遠く神代の時代以前から保っていたのではないかという見解である。

これまで私は、日本社会に顕著な、尊敬とか謙遜の態度を、社会の上位(支配者)階層から下位階層への強制や押し付けが人々を萎縮させ卑下させた結果と捉えていた。
だが、日本語にあれだけ多種多様な尊敬と謙譲の語彙が生まれた背景を推理すると、当時の一般大衆の側に、並大抵でない敬い好きの本性が隠れていたと考えざるを得ない。恒例の正月一般参賀に、数万もの人が参集する映像を観たとき、その思いを強くした。
人は自ら好んで敬い謙る性質を持っている。
そう考えると、今までわからなかった数々の歴史の謎の部分が、理解し易くなるように思えた。

時を今から数万年遡る。
私たちの祖先と目される人々(漢民族とは遺伝子的に稍違いのある人種から成る民族)は、日本列島に移り住む以前、自然災害(洪水や河川の氾濫)の極めて多い故地(たぶん中国大陸南部の、長江下流域の温帯モンスーン地域)で、数万年に及ぶ水田農耕と漁労の生活を営んでいた時代があった。
毎年襲い来る自然災害に遭遇し続け、自然の脅威に対する畏れの念を増幅させた結果、他の民族に倍して、自然に畏怖を覚える民族になったのではないかと推測する。
私たちの祖先が想像した神は、非常に暴虐な性質で、怒ると甚大な厄災をもたらす怖い存在として人々に認識されていたことだろう。
神は祟り暴れる怖ろしい存在として、住民の意識に刻印されていたに違いない。(神を怒らせると何をしでかすかわからない)・・・

その怒りやすい神への、恭順の証しとして、人々は自発的に神に対して畏み崇め奉る態度で接する(祀る)ようになったであろうことは納得できる。
同胞全てが神前にうち揃い、畏み崇め奉る態度で神の権威にひれ伏す時、人々は連帯感と安堵感を共有し、心の底から安寧を共感することができたのではないかと思う。
それは権力によって強制される崇敬とか跪拝とは明らかに異なる、自主的な恭順と崇敬の念に由る安寧の境地だったと考えられる。

太陽と月、山や滝、大岩・巨木などの自然物に、目に見えない力が宿っていることを遠い祖先の人々は想像し、その目に見えない存在に神を見出し、それを畏み崇め奉る(祀る)ことで安寧の時を見出す生活習慣を、幾千世代、何万年かに亘って繰り返しているうちに、その心性は遺伝性を獲得し、民族に共通する習性として定着したのではないかと考えられる。

神を畏み崇め奉ることで、神の怒りを招かないよう細心の注意を払って暮らす生き方を、習性として備えた祖先の人々は、ある時(日本の縄文時代後期)、戦乱または自然災害で荒廃した故地を捨て、稲と鉄器を携え船団を組み、朝鮮半島南部や日本列島に移住することを繰り返す。その多くは、列島の九州北部・東部、出雲、丹後・若狭、近江、能登、瀬戸内海沿岸に定住したと想われる。

弥生時代の幕を開けたこの人々は、土着の稲作を知らない人々と融和し、崇敬する神を共有した。神祇信仰は、渡来の神と土着の神の融合した形で発展し、列島全体に広まったのではないかと思う。
「畏み崇め奉る」この習性こそ、新来の民と土着の民とが争闘なく融和できた理由だろう。
柳田国男が日本人の事大主義を指摘して「のようなもの」と表現したものの実質ではないかと思う。

理屈抜きに現れる行動をと言う。癖は思考を伴わない。私たちの祖先が日本列島に定着する以前に、最も長く住み暮らしていた故地での生活は、畏み崇め奉ることで安寧が得られていたと考えるのは、的外れではないだろう。故地よりも、自然環境に恵まれ暮らしやすい列島に渡り来て、神祇信仰を確立し、神社を繁衍させた原動力は、故地での生活から生まれた習性に由るものと見て良いのではないか。

祖先が遍く信仰した神祇信仰は、理論・思想の不存在、つまり癖が結実したものと見ることができる。その拠り所であった神社の数と祭神の多様性を概観するなら、実体の無い神を畏み崇め奉り、一斉にひれ伏す古代日本人の日常の姿が浮かび上がってくる。
大和に生まれた王権が、斯くも長く権威を保ち続けることができたのは、民族に受け継がれる「癖のようなもの」に帰結できそうだ。

王の神格化によって権威性が高まれば高まるほど、民の卑小化は相対的に進む。
私たちの祖先は、大陸の沖積平野での農耕生活を通じて、権威に従順な性向を遺伝的に獲得したうえで、海を越え列島に渡来した。その性向を私たちは引き継いで今日に至っている。

権威に従順な心性が被支配者の民衆に宿っていなければ、短時日で国の統治システムを整えることは難しい。この国の原初の支配者は、凡ゆる手段で権威を強調し続けることに腐心し、統治をスムーズに運んだと見ることができる。仰々しいまでの儀式は、そのためのものだろう。

神話伝承をつくり、それに基づく史書を編纂し、統治者が民衆とは異質の神の末裔であることを強調したのは、統治の側の恣意によるものばかりではない。
おそらく私たちの祖先に当たる民衆は、神話伝承に結びつけられた王の権威に、文字どおり雑草のようにひれ伏すことで、心からの安寧に浸っていたに違いない。

もし私たちの祖先が、不覊自立の心性を具え、剽悍極まりない民族であったなら、王権確立に際して国内に長期にわたる争乱が発生していたことだろう。世界史にも稀な、驚くべき権威への恭順または盲従ぶりは、私たち民族の歴史を知らなければ、理解が難しい。

戦国時代を武力で終わらせ、足利将軍を追放し、絶大な権力を手中に収めた織田信長でさえ、天皇の権威の実質を認め、手を触れることはなかった。
比類なき絶対権力者信長でさえ、民が畏み崇め奉る天皇の権威には、到底抗する力を持たないことを知っていたのではないか?

日本人の権威は、権力者が押し付けるのでなく、下から担ぎ支えられることで成立する。
神社の祭りは、神を神輿に乗せ、皆で担ぎ支える。祭りの神輿は、【日本の権威】というものを象徴しているのである。

現代の日本社会を観察するとき、随所で見るのは「権威への従順さ」である。日本の社会は、権威に対しては羊のようにおとなしく、慕うと言ってもよいくらい権威を大切に扱う。政治でも学術でもメディアでも、モノをいうのは権威である。其処での実力は、一段低く見られている。長年社会で叫ばれる実力主義が空念仏に終わるのは、この習性に因るものだろう。





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